メッセージ(2020年7月21日)

Date:2020.07.20

酪農学園大学キリスト教委員会

メッセージ

聖書 テサロニケの信徒への手紙一 2章17−20節

奨励 「心が離れているわけではない」

2020年7月21日

宗教主任 小林昭博

 

【テサロニケの信徒への手紙一 2章17−20節】

17兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが―なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。18だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。19わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。20実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。 

(『聖書 新共同訳』日本聖書協会より引用)

今回の聖書テクストは使徒パウロが自分の創設したテサロニケの教会の人たちに宛てて書いた手紙の一節です。使徒17:1−9によれば、パウロと同労者のシラスはテサロニケにあるユダヤ教の会堂でキリスト教の宣教を行い、多数の信者が生み出されたために、ユダヤ教徒の妬みを買い、ユダヤ教徒に訴えられたパウロはテサロニケの治安当局によってテサロニケから追放されてしまい、かの地に入ることができない状態にありました。18節の「だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました」と言っているのは、具体的にはこのような状況を古代人らしく神話的に描写しているものと考えられます。したがって、17節でパウロが「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、―顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですが―なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました」と述べているのは、会いたくても会うことのできない状況だからこそ、相手を心配し、一目だけでも顔と顔を会わせて合間見えたいというパウロの思いが吐露されているということです。その意味では、この手紙は対面で会うことができない状況の最中で行われたリモートのコミュニケーションの機能を有していると言えます。

このテクストを読むと、最近ゼミ生や基礎ゼミ生から「早く大学に行きたい!」「いつになったら大学に行けるの?」と言われていることを想い起します。普段の生活であれば、「大学行くの面倒くさい!」「早く夏休みになってほしい!」と感じていたはずなのに、ソーシャル・ディスタンスを取るように、三密を避けるようにという指針をきちんと守っているゆえに、独りでいることを寂しく感じ、この状況に疲れてしまっている学生の様子が窺われます。スマホやゲームというパーソナル・スペースを何よりも大切にしているという印象を持ってしまいがちですが、ゲームやSNSという新しいコミュニケーション・ツールを使っていることを考えると、学生たちはひとりで殻に閉じ篭っているわけではなく、人と人との繋がりを大切にしていることが浮かび上がってきます。

先日卒業アルバムのゼミ集合写真の撮影のために集まったとき(本州にいるために来ることのできない学生はリモート集合)、楽しそうにしている学生たちの姿を見てホッとしましたし、わたし自身も学生たちに元気を貰いました。リモート・ゼミとは違う対面の良さというものを改めて感じました。また、過日の朝に同じ学類の先生と顔を合わせたとき、いつもなら単に「おはよう」と言って終わるはずなのに、いつの間にか―ソーシャル・ディスタンスを保ちながら―立ち話をしていることに気づき、誰かとコミュニケーションを取りたがっている自分がいることを知りました。むろん、実験・実習を伴う研究室では、注意しつつ対面でゼミを行なっているとは思いますが、それでも今までの日常に比すれば、コミュニケーションが不足し、特に一人暮らしの学生たちは寂しさを感じたり、現状に疲れたりしているでしょうし、道内外の実家に留まらざるを得ない学生や来日できなくなっている留学生の不安が膨らんでいるのではと心配になります。

こういった状況において、19−20節の「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」という励ましの言葉がいっそう心に響いてきます。聖書に通じている方であれば、ご存知とは思いますが、パウロはかなり厳しい人であり、誉める以上に叱責することが多くあります。しかし、そのような厳格なパウロが会うことの叶わないテサロニケの教会の人たちにこのような最高の賛辞を送っているのです。19節で「希望」「喜び」「誇るべき冠」と言い、20節で「誉れ」「喜び」と繰り返します。会うことは今はできないけれども、これほどまでに大切だということをパウロはこの最高の賛辞によってはっきりと伝えているのです。

新入生のなかには未だにキャンパスを訪れていない学生もいることと思います。日本中、世界中が同様の緊急事態であり、みんな我慢しているのだから、わたしも我慢をするし、あなたも我慢してくださいというのが世の常であるのかもしれませんが、古代人パウロが手紙でコミュニケーションをはかっていたことに比べれば、わたしたちには遥かに便利なコミュニケーション・ツールがあるのですから、リモートではあっても学生と繋がることはできるのだと思います。そして、パウロが会うことのできないテサロニケの教会の人たちに「希望」「喜び」「誇るべき冠」といった最高の賛辞を送ったように、わたしたち教職員も学生たちが酪農学園大学の「希望」「喜び」「誇るべき冠」であるということを伝えていく必要があると思うのです。なぜなら、17節にあるように、「顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではない」からです。学生たちとの物理的距離は確かに離れてしまっていますが、「心が離れていたわけではない」というパウロの言葉に促されつつ、この難局の最中にあっても、「心」や「気持ち」の部分で少しでも学生が安心できるように、「心が離れているわけではない」ということを伝えていきたいと願っています。