メッセージ(2020年7月14日 )

Date:2020.07.13

酪農学園大学キリスト教委員会

メッセージ

 

聖書 マタイによる福音書9章35−38節

奨励 「互いの弱さや痛みを支え合う」

 

2020年7月14日

宗教主任 小林昭博

 

【マタイによる福音書9章35−38節】

35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 

 (『聖書 新共同訳』日本聖書協会より引用)

 2020年7月の豪雨によって日本全土で夥しい被害が生じ、7月13日正午時点で、今回の水害で亡くなられた方は熊本県内の64名を含む72名にも上るとのことであり、行方不明者の捜索も続けられています。この状況下で今も熊本などの被災地で遠隔授業を受け

ている学生もいますので、心配や不安が重なっていることと思います。通常であれば、災害時には、本学が関係する日本基督教団の北海教区からボランティアの募集が行われたりするところですが、今回は新型コロナの関係から、現地に赴くことができないために、熊本YMCAを通じた物資提供と募金の呼びかけを行うに留めているとのことです。

わたし自身もここ数年2〜3月に熊本地震の被災地を訪ねていたのですが、今年はコロナの影響のために行くことが叶わなかったこともあり、心配な思いを持っています。コロナによって今まで当たり前だったことが制限され、そのことで人と人との繋がりの大切さを改めて実感させられています。学生たちからは早く大学に行きたいという声が続々と発せられていることを知り、学生たちが心身ともに疲れ、ストレスが重くのしかかっている現状にあることを心配しています。

今回の聖書テクストであるマタイ9:35−38は、「要約的報告」(大貫隆)と呼ばれており、この福音書を著したマタイがイエスの活動の意味をまとめたものだと考えられます。つまり、イエスが様々に行った活動とは、35−36節の「御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」ことにあるというマタイの理解が表されているということです。おそらく、このようなマタイのイエス理解の背景には、マタイ福音書が置かれている社会史的状況が反映していると考えられます。すなわち、マタイ福音書が著された紀元80年代のシリアは、紀元70年にローマによってエルサレム神殿が破壊された後にユダヤ人が難民となって避難してきた地域であり、「飼い主のいない羊」とはまさに自らの生活を奪われてしまったユダヤ人の状況を示唆していると考えられるからです。したがって、マタイはかつてのイエスの姿と自分たちの「教会共同体」(Gemeinde)の姿とを重ね合わせ、「弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)イエスの眼差しを継承するように呼びかけているのです。

《酪農学園大学の「飼い主のいる羊たち」(大学HPより)》

しかし、その直後の37−38節には「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とも述べられており、ここには助けを必要としている人が多くいるにもかかわらず、そのための働き手が不足しているといういつの時代にもある困難さが吐露されています。しかし、ここで言う働き手とは決して強い人という意味ではありません。つまり、強い人が弱い人を助けるという上から手を差し伸べるといったことが意味されているのではなく、自分たち自身の弱さや限界を自覚しつつ、互いの弱さを支え合うという相互性や互助性を持った人が働き手であるということを意味しているということです。

そして、そのことの証左がイエスの眼差として説明した36節の「深く憐れまれた」いう表現だと申せます。ここで「深く憐れまれた」と訳されているのはsplagchnizomaiというギリシャ語ですが、「内臓」を意味するsplagchnonから派生した動詞であり、「憐れむ」や「同情する」と翻訳されています。しかし、日本語の「憐れむ」(哀れむ/憫む)や「同情する」という表現には相手を下に見てしまうようなニュアンスもあり、splagchnizomaiに「憐れむ」や「同情する」といった訳語を充てるのでは不十分だと言わざるを得ません。というのも、この動詞は神殿で生贄として捧げられた動物の「内臓を食べる」という意味のsplagchneuōの受動相であり、したがってsplagchnizomaiをその語源的意味合いに即して意訳すれば、「内臓を食べられてしまうような感情を持つ」といった意味になるからです。つまり、36節のイエスの眼差しとは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、内臓をえぐられるような痛みに襲われた」というものなのです。要するに、イエスは人々が弱り果て、打ちひしがれている姿を見たときに、自分の生命の源でもある内臓をえぐり取られるほどの痛みを覚えたとマタイ福音書は伝えているのです。「憐れむ」や「同情する」といった訳ではその意味を十分に表すことはできないほどに、イエスは他者の痛みや苦しみを自らの痛みとして感じていたということです。

わたしたちが暮らす世界には「弱り果て、打ちひしがれている」人たちが確か存在しています。先にも述べたように、マタイ9:35−38はローマ軍によって自らの土地を奪われたユダヤの民が難民としてシリアに逃げ延びてきたという社会史的状況を反映していますので、そのことから推し量ると、イエスの眼差しは現代世界の難民の問題に向けられていると理解することもできます。そして、それは熊本等の水害の被災者にも向けられてもいます。さらに言えば、より広いわたしたちの身の周りにおいてコロナ禍で「弱り果て、打ちひしがれている」人たちにも向けられているのです。その意味では、イエスのこの眼差しは近年のSDGsが言う“Think Globally, Act Locally”というスローガンのように、より大きな世界に目を向けると同時に、自らの足もとにも注視することの重要性に気づくようにとわたしたちを誘っていると言えるのです。むろん、酪農学園大学にとって、イエスの眼差しは「弱り果て、打ちひしがれている」学生―および教職員―の痛みにまっさきに向けられるものであり、マタイがイエスの眼差しを継承するように呼びかけているように、わたしたちひとりひとりの眼差しが「弱り果て、打ちひしがれている」学生たち―および教職員たち―に注がれ、その弱さや痛みを自らの弱さや痛みとして感じることが求められているのです。しかし、これは強い誰かが弱い誰かを助けるということを意味するのではなく、自らの弱さや限界を自覚した者として、互いの弱さや痛みを支え合うことによって実現するものだと言えるのではないでしょうか。