メッセージ(2020年6月23日)

Date:2020.06.19

酪農学園大学キリスト教委員会

メッセージ

聖書 マルコ福音書8章1−10節

奨励 「分かち合うことの大切さ」

2020年6月23日

宗教主任 小林昭博

【マルコによる福音書8章1−10節】

1そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。2「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」4弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」5イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。6そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。7また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。8人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。9およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。10それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。   (新共同訳聖書)

 

【分かち合うことの大切さ】

例年であれば、この時期は前学期もとっくに折り返しを過ぎているはずですが、今年度は新型コロナウィルスの感染防止の対応によって、漸く折り返しが見えてきたという感じでしょうか。緊急事態宣言が解除され、少しずつ日常生活が戻ってきたのかもしれませんが、新しい生活様式といったことも言われていますし、また「コロナ前とコロナ後」という新しいの時間の区切りが唱えられてもいますので、目まぐるしく毎日が過ぎて行くように感じる部分とストレス過多な生活で時間の流れが遅く感じてしまう部分が交錯する複雑な毎日を過ごしているような気持ちになります。今までであれば、学生の皆さんは授業が面倒くさいと思ったりすることもあったかもしれませんが、非日常が続くと、何気ない当たり前の出来事の大切さを却って感じてしまのではないでしょうか。在学生であれば、大学のキャンパスに集う日々や教室での授業を愛おしく思い、新入生であれば、今頃は大学のキャンパスで新しくできた友達と学食を食べたりしていたのかなと思いめぐらすこともあるでしょうか。その意味では、日常のありがたみをこれほど実感したことはないかもしれません。

今回一緒に読む聖書テクストの新約聖書のマルコ福音書8章1−10節は「四千人の供食」と呼ばれる奇跡物語です。福音書によれば、イエスは群衆から非常に人気が高く、イエスが来るところには大勢の人たちが詰めかけてきたようです、このテクストではイエスに四千人もの人たちが付き従ってきてしまい、しかも三日間もイエスに追っかけのように付いてきた人たちがお腹を空かして困ってしまっている様子が描かれています。こういうとき、世知辛い現代社会では「自己責任」として、知らんぷりを決め込むのかもしれませんが、イエスは弟子たちを呼び寄せて何とかしてあげたいと伝えます。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない3空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」。しかし、弟子たちは四千人に食べさせる食事を持ち合わせているはずもありませんので、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言ってイエスの願いが不可能であると返答します。すると、イエスは弟子たちが持ち合わせていた「七つのパン」と「小さな魚」を取り、神に祝福の祈りを捧げてから、そこにいた人たち分け与えると、四千人全員がお腹いっぱいになり、さらに残ったパンを集めると「七籠」にもなったというのです。

古代世界の人たちにとっては、この物語はイエスの神々しさを表す奇跡物語であり、わたしたちが「笠地蔵」や「桃太郎」といった昔話を聞くように、楽しい奇跡の話として受け入れられました。この物語の少し前のマルコ福音書6章30−44節には「五千人の供食」の奇跡物語もありますので、おそらく食糧事情が悪かった古代世界の民衆たちにとって、お腹いっぱい食べることのできる「供食の奇跡」は日常のささやかな願望――しかし「食」という最も大切な願い――を叶えてくれる物語として、「イエス様はこんなふうにお腹いっぱい食べさせてくれたよ」という日常生活と密接したイエスの姿を人から人へと伝えていったのではないでしょうか。

今までの生活では、この物語を読むと、絶対的貧困に苦しむアジアやアフリカの子どもたちを想い起こしたり、相対的貧困に苦しむ日本の子どもたちに思いを馳せたりすることが多かったのですが、今この物語を読むと、コロナ下(禍)の日本で「マスク」や「消毒液」が絶対的に不足しているなかで、マスクや消毒液の買占めや転売が頻発し、マスクをめぐって人が争ったり、怒鳴りあったりする姿が思い浮かびます。でも、その反対に不足しているものを分かち合う人たちの姿に触れたり、医療現場などの火急の事態の直中で働いている人たちに物資や食料を届ける人たちの姿に感動したりすることもありました。北海道が大変だということから、自分たちも大変にもかかわらず、東京や関西の仲間達からマスクを送ってもらって、それを分かち合うこともありました。酪農学園でも色々な人たちが、必要なものを分かち合っている姿にも触れることができ、その都度嬉しさが込み上げてきました。

イエスの「供食の奇跡」ですが、七つのパンと小さな魚だけで、四千人がお腹いっぱいになることは普通あり得ません。古代の奇跡物語として、受け止めるのが適切とは思いますが、合理的な説明としては、イエスが弟子たちの持っているパンをみんなで分かち合うなかで、そこにいた四千人の人たちが自分たちの持っているパンを出し合ったので、全員がお腹いっぱいになって、さらに七籠分が残るほどだったという話を聞いたことがあります。個人的には、古代の奇跡物語の史実性を問うこと自体がナンセンスだと思うのですが、しかしこのような奇跡物語の説明は確かに奨励題の「分かち合うことの大切さ」についても巧みに解説してくれているように思えます。

有名な新約聖書の格言に「受けるより与える方が幸いである」(使徒言行録2035節)という言葉があります。これはパウロがイエスの言葉として語っているのですが、新約聖書にはこれに相当するイエスの言葉は見当たりません。古代の格言でこの言葉に最も良く似ているのは、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデス(前460年頃〜395年頃)『歴史』2974が伝える「彼ら〔=オドリュサイ王国〕はペルシア王国とは逆の習慣を設け、与えるよりは、むしろ受け取ることをならいとしていた」(藤縄謙三訳)という言葉です。供食の物語もイエスの格言も古代ギリシアの格言も、いずれも「分かち合うことの大切さ」を伝えているように思えるのです。

【大学「希望の塔」】

今回の新型コロナウィルスは医学的問題ではありますが、それと同時に人間のあらゆる生活の問題でもあり、ある意味では人間の本質を露わにしたと言えるのではないでしょうか。「コロナ前とコロナ後」で何が変わるか。それは新しい生活様式という問題には留まりません。それは我先に不足物資を手に入れることから、分かち合う(シェア)ことへの方向転換でもあります。競争原理を煽る新自由主義の価値観が世界を覆うなかで、その流れに抗して、マルコ福音書8章1−10節が示す「分かち合うことの大切さ」を忘れないようにしたいとの思いでいます。