2024年度アドヴェント(待降節)第2週礼拝(2024年12月10日)動画の配信

Date:2024.12.10

2024年度アドヴェント第2週(後学期第12回)礼拝

【大学礼拝動画の配信】

2024年12月10日のアドヴェント礼拝動画の配信をします。

視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1XBI0PbBaV6DV32wRP_t6gk6pFYobSmvw/view?usp=sharing

【2024年のヒンメリ】

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書5章22−23節

【新共同訳聖書】

 22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。 23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。

 【本日の奨励】

「自分の価値と相手の価値――相互理解」
小林昭博(宗教主任)

 本日の聖書はベトザタの池の奇跡に伴うイエスの説教の続きです。22節は神が一切の裁きを行うことなく、裁きの全てをイエスに委ねたと記されています。ここで用いられている「裁く」や「裁き」と訳されているのは、前者が動詞のκρίνω(クリノー)、後者が名詞のκρίσις(クリシス)です。英語のcriticizeやフランス語のcritiqueの語源です。これらの西洋語には「批判(する)」という訳語が充てられていますので、語源のギリシャ語にも「悪く言う」という意味が含まれるように思うかもしれませんが、その本来の意味は「判断(する)」です。そして、英語のcriticizeやフランス語のcritiqueもまた、その本来の意味は「判断(する)」なのです。日本語では「批判」と「非難」が混同されてしまっていることに起因する誤解なのですが、後者が感情的に「悪く言う=非難する」ことを意味するのに対して、前者は自分の立場から理性的に「判断する=批判する」ことがその本来の意味です。23節は最初期キリスト教の迫害に言及しています。新興宗教であったキリスト教はユダヤ教から迫害され、同じ神を信じているにもかかわらず、迫害されていた現実が反映しています。これはパレスティナやアラブの人たちが信じるイスラームの神がユダヤ教の神とキリスト教の神と同じ聖書の神であるにもかかわらず、迫害され続けている現実と重なります。自分たちが迫害されて嫌な目に遭ったはずなのに、キリスト教はユダヤ人を迫害し、アラブ人をも迫害しているのです。同じ聖書の神を信じるアブラハムの宗教に連なっているにもかかわらずです。
本日の聖書に用いられている「裁き」には「最後の審判」の意が込められています。先ほども触れたように、「裁き」と訳されているのはギリシャ語のκρίσις(クリシス)です。この語から英語のcrisisやフランス語のcriseが生じました。これらは岐路に立たされときに、どの道に進むのかを「判断」する必要に迫られることから、「一大危機」や「最終局面」という意味に派生しました。そして、当然のことながら最後の審判はその典型として理解されるものでもあります。しかし、ヨハネ福音書の理解に基づけば、最後の審判とは世の終わりに良いことをした人は天国に挙げられ、悪いことをした人は地獄に落ちるといった応報的な褒美や懲罰ではないのです。なぜなら、神から一切の裁きを委ねられているヨハネ福音書のイエスは、その人の行状を含めて誰をも裁くことはないと述べ、イエスの言葉によって人は自分自身を裁くことになると言われているからです(ヨハネ8:15−16、12:47−48)。ヨハネ福音書が言うイエスの言葉とは「互いに愛し合う」(ヨハネ13:34)ことにほかなりません。この言葉を知った人間がどのように生きるのかが問われているのです。そして、「互いに愛し合う」というイエスの言葉に倣って誠実に生きていくことが「自分の価値と相手の価値」を認める「相互理解」につながるのです。自分という存在を大切にし、同様に相手の存在をも大切にするみなさんで在り続けてください。

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

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