2022年10月18日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2022.10.13

2022年度後学期第4回大学礼拝

【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1_tcOc46RrxJWZDA5v_gAzQBbCjtLgeAa/view?usp=sharing

 

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書1章9−10節

【新共同訳聖書】  

 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。

【本日の奨励】

「真理とは理解されないもの」

 ヨハネ福音書1:9−10は光やロゴスとして表されているイエスをこの世が理解することができなかったということを神話的な表象を通して伝えています。9節は「真理の光が在った」「それは全ての人間を照らす」「それは世に来た」という三つの短い詩文で構成されています。詩文を通してイエスが人間を照らす真理の光としてこの世に到来したということを読者に伝えています。新共同訳聖書が「まことの光」と訳している表現は、「真理の光」とも「本物の光」とも訳すことができますが、おそらく双方の意味を含ませているのだと思います。したがって、この表現はイエスこそが唯一無二の本物の真理の光であり、その光にこの世が照らされることによって、隠されている真理が明らかとなり、この世の闇が消え去るというギリシャのプラトン哲学やストア哲学の善悪二元論的な思惟が語られているということです。この背後には真理を意味するギリシャ語のἀλήθεια(アレーテイア)がイデアの世界に隠されている真理を発見するという意味を持っていることも関係しています。10節も9節同様に「世にそれは在った」「そして世はそれによって生じた」「そして世はそれを認識しなかった」という三つの短い詩文から成ります。ギリシャ語を直訳しましたので、代名詞をそのまま訳しましたから、少々分かりづらいかもしれませんが、「それ」は「ロゴス」(言葉・理性)を意味します。ですから、ここでも天地創造以前から存在する「先在のロゴス」(先在のキリスト)の被造物であるにもかかわらず、この世はイエスを認識できなかったというギリシャ哲学の善悪二元論的を前提とする思弁が言い表されているのです。
ヨハネ福音書には「わたしは良い羊飼い」や「わたしはまことのぶどうの木」といったキャッチーな表現が数多く現れますので、分かりやすい内容だと勘違いされることがあるのですが、かなり難解な文書です。今日のテクストはこの世がイエスを十字架で処刑してしまったことを、この世はこの世の創造者であるロゴスなるイエス・キリストを認識しなかったと象徴的に表現しています。しかし、隠されている真理にわたしたちを導こうとしているようでありつつ、却って真理を遠くに隠したままにしているようにさえ感じさせられます。それで奨励題を「真理とは理解されないもの」としたのですが、ヨハネが言わんとする「理解/認識」は、難解な真理を悟ることなどではなく、知ろうとするものにわたしたちが真剣に向き合い、知ろうと欲しているかを問うているように思われるのです。研究によって真理に到達することも同様です。究極の真理に到達すること以上に、真理に到達しようと日々懸命に努力し続ける姿勢が問われているのです。

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

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