2021年12月7日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2021.12.02

2021年度後学期第12回大学礼拝

【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1cwvsF4FqHCYoAHbhTb1jKrZSWVaTgPDu/view?usp=sharing

 

【本日の聖書】

フィリピの信徒への手紙3章1

【新共同訳聖書】

 1では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

 

【本日の奨励】

「面倒を引き受ける――他者のために」

 フィリピ3:1はフィリピ書の主題である「喜び」について改めて強調しています。通常は「喜ぶ」という感情に留まらず、喜怒哀楽の全ての感情は自分が遭遇した出来事によって惹き起こされます。ですから、何を喜ぶのかという目的語を欠いているのはおかしな印象を受けます。このテクストの「喜ぶ」という意味を理解する鍵は「主において」(ἐν κυρίῳエン・キュリオー)という限定の表現にあります。つまり、これはパウロが「主において=イエスにあって」遭遇した迫害、逮捕、拘禁という「喜び」の真逆の出来事の直中にあっても、希望を失っていないように、「喜びなさい」と勧めているのです。そして、パウロは繰り返し同じことを語ることがフィリピの人たちの「安全」のためであり、それゆえ煩わしいことではないと述べています。「煩わしい」と訳されているὀκνηρός(オクネーロス)は「躊躇する/ぐずぐずする」を意味します。また、「安全」と訳されているἀσφαλής(アスファレース)は「確かな/安全な/不動の」という意味ですが、「足をすくう/転ばす」を表すσφάλλω(スファッロー)に否定辞のαを付したものです。つまり、パウロは他者の安心・安全のためであるゆえに、同じことを繰り返すことにも躊躇しないと言っているのです。
11月27日にNHK BSプレミアムのドミュメンタリー『燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~』が放映されました。わたしはプロレスが好きなのですが、とりわけアントニオ猪木の大ファンです。「キリスト教信者」ですが、「猪木信者」でもありますと言ったら叱られるでしょうか。普段からYouTubeの「最後の闘魂チャンネル」を見ていますので、難病で死の境をさまよう闘病生活から復帰したたことを知ってはいたのですが、改めて胸に熱いものが込み上げてくる内容の番組でした。あの世界最強の人間が死んで楽になりたいと思うほどに苦しかったと語り、死を現実に突き付けられて悟りを啓きたいと願う気持ちをも吐露していたました。しかし、まだ生かされているという現実を生きるということ、そして「元気ですか?」と問うてきた責務を果たすために、敢えて「元気」を自らの身に引き受ける姿を目の当たりにし、パウロの「喜ぶ」とアントニオ猪木の「元気ですか?」がインターテクスチュアルに響き合い、敢えて「面倒なこと」を引き受けて生きるのは、まさに自分の周りにいる他者のためなのだと感じ、死を現実のものとして見つめるパウロとアントニオ猪木に共通する人間の深みと真の強さを実感しました。
Memento Mori(死を覚えよ/死を忘れるな)という中世のラテン語の格言にもあるように、いくら自分を強いと思っていても、人間は死に向かって生きる運命から逃れられません。イエスが十字架の処刑死を現実に突きつけられようとも、敢えて他者のために面倒を引き受けて生き抜いたのは、自分が生かされていることに対する感謝と応答、そして使命感でした。アドヴェントにフィリピ3:1からクリスマスの意味を見つめ直せば、奨励題にあるように「面倒を引き受ける――他者のために」生きることが浮かびます。そのイエスにパウロが倣ったように、限りある生を他者のために敢えて面倒を引き受けて生きていきたいとの思いを新たにさせられます。

 

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