2024年度アドヴェント(待降節)第3週礼拝(2024年12月17日)動画の配信
Date:2024.12.17
2024年度アドヴェント第3週(後学期第13回)礼拝
【大学礼拝動画の配信】
2024年12月17日のアドヴェント礼拝動画の配信をします。
視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1SGF4DKso4OuHfBzS6bUB7FtnaJeEQUVN/view?usp=sharing
【2024年のヒンメリ】
【本日の聖書】
ヨハネによる福音書5章24−25節
【新共同訳聖書】
24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
【本日の奨励】
「今を生きる――アドヴェントに寄せて」
小林昭博(宗教主任)
本日の聖書にはヨハネ福音書の終末論が記されています。終末論は世の終わりに関する教説であり、混乱と戦乱、頽廃に満ちた世界にメシアが来臨し、千年王国が天から降り、神の最後の審判が行われ、義人は天国に挙げられて永遠の命を受け、罪人は地獄に堕とされて永劫の責苦を受けるといった内容で構成されます。終末論は前3世紀〜後2世紀にユダヤ・キリスト教の間で具体的内容を伴って完成しました。前1世紀末〜後1世紀中葉には終末はすぐに来臨すると信じられていたのですが(切迫した終末論)、1世紀末〜2世紀には終末が到来しないことを戸惑う様子が見られ(終末の遅延)、その説明も試みられています(Ⅱペトロ3:8−13)。幸か不幸か、その後2千年にわたって終末は到来していませんが、第2ミレニアム末(20世紀末)にノストラダムスの大予言が流行ったことが知られています。
現代人には終末論は古色蒼然とした古代人の神話として理解されていますが、本日の聖書箇所からも知られるヨハネ福音書の終末論は現在的終末論とも呼ばれるものであり、現代人にも示唆的です。24節は正確に訳すと、「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う、『わたしの言葉を聞き、わたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、裁き〔の法廷に〕行くことはなく、死から永遠の命に〔すでに〕移ったのである』」となります。少し文法的な説明を加えると、「永遠の命を持ち」と「裁き〔の法廷に〕行くことはなく」は現在形が使われており、「死から永遠の命に〔すでに〕移ったのである」は現在完了形が用いられています。つまり、ヨハネ福音書では最後の審判や復活と永遠の命は未来に与えられるものではなく、イエスの言葉を聞いて神を信じる者は現時点で永遠の命を持っており、最後の審判において裁きに遭うこともなく、すでに死から永遠の命に移されており、その状態が今も続いていると理解されているのです。25節は最後の審判の描写ですが、正確に訳すと「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う、『死者たちが神の息子の声を聞き、その聞いた者たちが生きることになる時が来る。今がそうである』」となります。日本語訳とは異なり、ギリシャ語原文では「時が来る」と「今がそうである」が前半に置かれるのですが、双方ともに現在形が使われています。そして、原文では後半に置かれる「声を聞き」と「生きるであろう」は未来形が使われています。したがって、25節は未来に起こると考えられていた最後の審判が現在のこととして今すでに実現していることを伝えているのです。
アドヴェントはイエスの誕生を待ち望む期間ですが、ヨハネ福音書によれば、神から遣わされたイエスの来臨はメシアの誕生であると同時に、終末のメシアの来臨でもあるのです。そのイエスは今ここでどう生きるのかの決断を迫ります。イエスはこの世界の問題を終末の未来に先送りにするのではなく、この世界に向き合い「今を生きる」ことを求めているのです。
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1SGF4DKso4OuHfBzS6bUB7FtnaJeEQUVN/view?usp=sharing