2024年度前学期第9回(2024年6月11日)大学礼拝動画の配信

Date:2024.06.11

2024年度前学期第9回大学礼拝

【大学礼拝動画の配信】

2024年6月11日の大学礼拝動画の配信をします。

視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1siWmhSq8uyzC7hpBUl-vc2J5G68IhG4B/view?usp=sharing

 

【聖歌隊のさんび(歌声は上のリンクの動画で)】

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書4章31−33節

【新共同訳聖書】

 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。

 【本日の奨励】
「近くて遠い、遠くて近い――弟子という存在」
小林昭博(宗教主任)

 本日の聖書はイエスをメシアだと信じたサマリアの女性がサマリアの人たちをイエスのもとに連れて来た直後の場面です。31節は食料の買い出しから戻ってきた弟子たちがイエスに食事を勧めるのですが、32節でイエスはその食事を受け取らずに、身体の食事とは別の次元の食事の話をします。イエスが言わんとするのは、イエスの死までもう時間がないのだから、身体を生かす栄養にではなく、人間の内面を生かす栄養に意を尽くそうということです(ヨハネ4:34−38参照)。しかし、33節が伝えるように、弟子たちはイエスの死期が近いことを悟ることなく、誰かがイエスに食事を持ってきてくれたのかもしれないと見当違いなことを言い合っています。
弟子は師の間近にいる最高の理解者だと思われています。しかし、弟子が師を理解しているとは限らないことが今日の聖書から窺えます。弟子を意味するギリシャ語のμαθητής(マテーテース)は、動詞のμανθάνω(マンタノー)から派生した名詞です。この動詞は「学ぶ」が基本の語意ですが、「何かに対して人の心を向けさせる」というのが本来の意味です。そして、そこから派生して、「慣れさせる」や「経験する」という意味となり、「知るために学ぶ」という意味に落ち着いたようです。確かに、知ろうとする姿勢や知るために心を向けることは大切です。礼拝でも、授業でも、心ここに在らずではなく、心を向けることから始まります。しかし、イエスの弟子たちはイエスの思いに心を寄せることができていなかったようです。
わたしにも新約聖書学の恩師たちがいます。そのうちのおひとりは最初にお会いしたときは50歳になっていなかったはずですが、貫禄が凄く、厳格な印象でした(彼我の差を実感!)。ゼミでは1対1で卒論を書いたのですが、イエスの食事を研究テーマにしたいと伝えると、古代ユダヤの食事を知るにはと、1920年代のドイツの古典『タルムードとミドラシュからの新約聖書注解』(全6巻)を読もうと提案されました。古代のヘブライ語のラビ文書から新約聖書の背景を説明する事典のような書物であり、ギリシャ・ラテン語も頻出します。ギリシャ語はそれなりに自信があったのですが、ヘブライ語はまだまだでしたので、事前にヘブライ語の先生に助けてもらってゼミに臨むこともあり、言いにくのですが、準備が間に合わず、一度「バックれた」こともあります。次の週に「ずっと待ってたんですよ」とニコッとされ、その優しさにやられて、それからは必死に勉強しました(先生の姿がお手本!)。以前に先輩(牧師)と先生を訪ねたときに、先生の前では緊張して、いつもと違うわたしの姿にその先輩が驚いたことを思い出します。みなさんも本学で素晴らしい先生と出会うと思いますが、イエスの弟子たちがそうであったように、普段は凄く見える先生たちにもまだまだな時代があったのです。「近くて遠い、遠くて近い」のが「弟子という存在」です。安心して先生たちの門戸を叩いてみてください。

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1siWmhSq8uyzC7hpBUl-vc2J5G68IhG4B/view?usp=sharing