2024年度前学期第3回(2024年4月30日)大学礼拝動画の配信

Date:2024.04.30

2024年度前学期第3回大学礼拝

【大学礼拝動画の配信】

2024年4月30日の大学礼拝動画の配信をします。

視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1ejfigQJObwnOYUOW6y5zKPvNOoipVups/view?usp=sharing

 

【讃美歌を歌う学生たち】

(写真提供:環境共生学類 千葉 崇先生)

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書4章13−15節

【新共同訳聖書】

 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 【本日の奨励】
「聖書による教育――酪農学園大学の根幹み」
小林昭博(宗教主任)

 今日の聖書は「命の水」という言葉の基になった逸話が記されています。これはマタイ福音書の悪魔の誘惑の場面において、イエスが申命記8:3を引用して断言する「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)という言葉と同じ意味を持っています。つまり、人は身体的・物質的な面が満たされても、それだけで生きていくことのできるものではなく、精神的・情操的――特に宗教的――な面もとても重要だということです。わたしたちの身体の半分以上は水分から成り、身体を生かすうえで水は不可欠です。現代では水の質に拘るのは当然であり、浄水器やミネラルウォーターのブランド選びにも余念がありません。温泉の泉質や入浴剤に拘ることも水の重要性を表しています。水をめぐる詐欺が横行していることも水質に対する拘りを反対に物語っています。水に対する拘りは身体の健康に対する意識の高さを表していますが、それに比してわたしたちは「命の水」が象徴する精神的・宗教的な問題、すなわち内面や人格の面に注意していないのではないでしょうか。
イエスとサマリアの女性の対話において、女性が物質的な水に言及しているのに対して、イエスは精神的・宗教的な水を主題にしています。ヨハネ福音書はサマリアの女性がイエスの話を理解できていないかのようにこの対話を描いていますが、ここにはヨハネ福音書の巧妙なレトリックが隠されています。意図的に物語の構成を奇妙なものに変え、読者を引き込もうとしているのです。つまり、物質的な水の話題を宗教的な水の主題にずらすことで、ギリシャのイデア論と通底する「命の水」が示す精神的・宗教的な面の大切さに読者の意識を向けようとしているということです。
イエスが与える「命の水」はその人を真に生かす活力をその人の内面に泉のように湧き上がり続けさせるものとしてイメージされています。これは宗教的には「永遠の命」と呼ばれるものであり、現代人の科学的思考とは相容れないものに映るかもしれませんが、ヨハネ福音書の「永遠の命」とは死後に来世で得られるものではなく、現世において信じる者はすでに永遠の命を生きているという考えです。黒澤酉蔵先生は大学創設時に「聖書による教育」を掲げました。これは聖書の言葉が「命の水」として「酪農学園大学の根幹」を支えることを示します。黒澤先生の教育の源泉が「命の水」にあったからこそ、その教育の情熱も泉のように湧き上がり続けたのであり、その考えは常に「命の水」である聖書の言葉から発し、聖書の言葉に立ち戻って省察されるものでした。本学には今も黒澤先生を継承する「命の水」である「聖書による教育」の情熱が泉のように湧き上がっており、それが三愛主義を三愛主義たらしめています。「命の水」である聖書の言葉から発し、聖書の言葉に立ち戻って学生の内面や人格を大切にする酪農学園大学としてこれからも歩み続けたいとの思いを禁じ得ません。

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1ejfigQJObwnOYUOW6y5zKPvNOoipVups/view?usp=sharing