2023年11月14日の大学礼拝動画の配信
Date:2023.11.14
2023年度後学期第8回大学礼拝
【大学礼拝動画の配信】
2023年11月14日の大学礼拝動画の配信をします。
視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1FpkrH2Jrqv3lbueRtDLNo3IynAKadKi0/view?usp=sharing
【本日の聖書】
ヨハネによる福音書3章24−30節
【新共同訳聖書】
24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
【本日の奨励】
「師弟愛――洗礼者ヨハネとイエス」
小林昭博(宗教主任)
本日の聖書はイエスと洗礼者ヨハネをメシアとその先駆者とする理解
もっとも、洗礼の意味を言葉を弄して説明するよりも、多くの教会で洗礼が行われるクリスマス礼拝に行って、洗礼式に臨席してみることで、その時間と空間を実際に経験してみることが、実学重視の本学には適していると言えるのかもしれません。が述べられています。24−26節は1世紀後半の洗礼者ヨハネ教団とキリスト教との競合関係を背景とする内容が綴られています。「清め」とはヨハネ教団の「洗礼」の意義を表しており、ユダヤ教の罪の清めのための「洗礼」からキリスト教の入会儀礼としての「洗礼」への変化を背景として、双方の洗礼理解の違いが浮き彫りになっています。27−30節は洗礼者ヨハネが自分の弟子たちの訴えに答えた内容が記されています。ここにはイエスとヨハネの関係に関するヨハネ福音書の理解がしたためられており、それは師ヨハネと弟子イエスの関係としてではなく、メシアとして遣わされたイエスとその道備えをする先駆者ヨハネの関係として両者の関係が捉え返されています。特に象徴的なのは、30節の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」というヨハネの言葉です。これは歴史的には70年のローマによるエルサレム陥落後にユダヤ教がパレスティナを追われ、それに伴って洗礼者ヨハネ教団が勢いを削がれてしまったのに対して、キリスト教はユダヤ教の一宗派からから新しい宗教へと生まれ変わり、民族宗教から世界宗教へと展開していった状況を反映しています。この30節は世の栄枯盛衰を語ってもいますが、その背後には洗礼者ヨハネとイエスの師弟愛があったと思われます。イエスとヨハネは袂を分かったようではありますが、イエスは終生ヨハネを尊敬し、ヨハネはイエスを見守っていたように思えるのです。わたし自身も牧師になるべく勉強を始めたとき、将来は出身教会に戻り、師である牧師先生と一緒に働き、いつかその後を継ぎたいと願っていたのですが、新約聖書学という学問、特に史的イエス研究に魅せられたことで、自分の夢が聖書学者に変わってしまい、師を裏切ってしまったのではとの思いがありました。しかし、今でも師はわたしを温かく見守ってくださり、新約聖書学の専門的な質問をしてくださいます。先月みなさんの先輩の安部一徳牧師(酪農学科卒)が急逝されました。先生は東京から本学に来て、故井上錦次先生から「人間机上の学びだけではだめだ。心を耕しなさい。そして教会に来なさい」と語りかけられ、人生が一変しました。大学は生涯の友人や生涯の師と会う場所です。良き師とは弟子が自分を超えることを喜ぶ人です。学生のみなさんが本学で良き友と良き師と巡り会い、机上の勉強に加えて、心を耕してくださるよう願います。
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1FpkrH2Jrqv3lbueRtDLNo3IynAKadKi0/view?usp=sharing