2023年10月10日の大学礼拝動画の配信

Date:2023.10.10

2023年度後学期第3回大学礼拝

【大学礼拝動画の配信】

2023年10月10日の大学礼拝動画の配信をします。

視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1OREGEQW3PAtzrjcAtjqVDpJwgAgzVfpP/view?usp=sharing

 

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書3章18−19節

【新共同訳聖書】  

 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

【本日の奨励】

「今、ここでの決断――神の裁きの非神話化」
小林昭博(宗教主任)

 本日の聖書テクストは「神の裁き」を主題にしています。大学礼拝で「神の裁き」などと言うと、「最後の審判」を連想して驚かれるかもしれません。しかし、ヨハネ福音書はデンマークの思想家セーレン・キェルケゴール(1813−1855年)――三愛主義のニコライ・グルンドビー(1783−1872年と同時代人――を祖とする実存主義にとって最重要の聖書として知られていることからも窺われるように、この福音書の神学は「今、ここでの決断」にあります。つまり、先延ばしにする曖昧さを斥け、常に人間は「今、ここでの決断」を求められているという思想です。ですから、18節で神の裁きがすでに実行されていると言われているのは、ヨハネ福音書では「神の裁き」は「最後の審判」という未来のことではなく、「今、ここでの決断」を促すものにほかならないことを示唆しています。したがって、19節で人間が光(イエス)よりも闇(この世)を選んだこと自体が裁きであると言われているのもまた、「今、ここでの決断」として、人間が光(イエス)ではなく、闇(この世)を自らで選択したその決断がすでに裁きだと述べているわけです。もっとも、この文章の意味を正確に理解するには、「裁き」を意味するκρίσις(クリシス)が「判断」が原意であることを想起する必要があります。つまり、光ではなく闇を選んだその「判断」が、その人を光から闇へと至らせる「判断」にすでになっているということです。ですから、闇を好んだ人々の「行いが悪い」というのは、何らかの具体的な罪を犯したことに言及しているのではなく、「互いに愛し合う」(ヨハネ15:12)というイエスの戒めを守らなかったという一事を指摘しているのです。つまり、「愛する」というイエスの戒めを「今、ここでの決断」として実践せずに、「愛」の反対側に身を置き、「憎しみ」や「無関心」に身を委ね、イエスの「愛」に背を向ける生き方が、そのまま「闇=この世」の価値観に従って生きる「判断=裁き」になっているとヨハネ福音書は伝えているということです。このようなヨハネ福音書の「光と闇」を対極に置く神学は古代の「世界観/宇宙観」(Kosmologie)を表してはいますが、それと同時に未来に「最後の審判」が到来するという古色蒼然とした「世界観/宇宙観」を乗り超え、現代にも通じる生き方を指し示しているとも言えます。そして、このようなヨハネ福音書の「今、ここでの決断」を促す神学は、20世紀最大の新約聖書学者であり、歴史批評学と実存論によるヨハネ福音書の最高峰の注解書を著したドイツのルドルフ・ブルトマン(1884−1976年)の「非神話化」(Entmythologisierung[古代人の神話的表象を現代人の科学的思考の観点で再解釈する思想])によって「再現前」(Vorstellung/Repräsentation)されています。わたしたちがκρίσις(クリシス=crisis=一大危機の決断)の前に立たされるときには、先延ばしにする猶予など存在しません。「互いに愛し合う」ことに通じる「今、ここでの決断」をするようヨハネ福音書はわたしたちを誘っているのです。

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1OREGEQW3PAtzrjcAtjqVDpJwgAgzVfpP/view?usp=sharing