2023年9月25日の大学礼拝動画の配信(後学期初回礼拝)

Date:2023.09.26

2023年度後学期第1回大学礼拝

【大学礼拝動画の配信】

2023年9月26日の大学礼拝動画の配信をします。

視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1taPV3BNeIWzO0d3CV8NiXb00qHKVfQSI/view?usp=drive_link

 

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書3章16節

【新共同訳聖書】  

 16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

【本日の奨励】

「この世を愛する神――イエスの死の意味」
小林昭博(宗教主任)

 本日の聖書テクストはヨハネ福音書の中心的使信を端的に述べています。16節は原文のギリシャ語の語順に則して翻訳すると、「なぜならこれほどに神は世を愛した、それゆえ独り息子を彼は与えた、彼を信じる者が全て滅びることなく、永遠の生命を持つためである」となります。ですから、新共同訳聖書が16節前半を「神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と翻訳しているのは正確ではありません。ヨハネ福音書は「神がいかにこの世を愛しているのか」を、つまり「神がいかに人間を愛しているのか」を強調していますので、そのことが正確に伝わるように訳す必要があります。続く16節後半は神の人間に対する愛の表れこそが、イエスを信じる者が全て滅びることなく、永遠の生命を得ることだと語っています。
今日の聖書テクストが教会で説き起こされる場合には、神にこれほどまでに愛されていることを知ったのだから、その応答としてイエスを信じ、永遠の生命を得ましょうというメッセージが語られるのだと思います。しかし、キリスト教主義大学でこの言葉が語られるときには、やはり強調点は自ずと異なります。では、どこに強調点が置かれるのでしょうか。それは16節冒頭の「なぜならこれほどに神は世を愛した」という言葉です。先にも触れたように、16節冒頭は「これほどに神はこの世界を生きる人間を愛している」ということを伝えています。ここで言われている「愛」とは、「無私の愛/無償の愛/与える愛」などと言われる「見返りを求めることのない愛」を指します。わたしたちに何か取り柄がある、優れている点があるから愛するというのは簡単なことです。しかし、聖書が語る「愛」とは、そのままの、ありのままのあなたを受け入れる「愛」を表します。
このようなキリスト教の「愛」を考えるとき、近代日本の小説家・評論家の有島武郎(1878−1923年)の評論集『惜しみなく愛は奪ふ』(叢文閣刊、1920年、新潮文庫、1955年、2000年)が思い浮かびます。有島は札幌農学校に学び、新渡戸稲造や内村鑑三の影響から1901年にキリスト教に入信しますが、1903−1907年の米欧留学後に棄教し、キリスト教の「愛」が「与える愛」ではなく「奪う愛」であるとの批判を展開したと言われています。確かに有島は既成のキリスト教を棄てはしたのですが、しかし彼はパウロのキリスト教が「奪う愛」であり、既成のキリスト教がイエスから離れてしまっていることを批判しているとも解されるのです。特にそれは戦争を引き起こすキリスト教国に対する批判と絶望でもありました。つまり、有島は外形が綺麗であっても、「白く塗った墓」(マタイ23:27)のように、内側が利己心や敵愾心に満ち、イエスの愛の教えから離れ、形骸化してしまっている既成のキリスト教を棄て、愛に殉じて死へと向かったイエスを真のキリスト教として求め続けたということです。翻って酪農学園大学を省みるとき、本学のキリスト教、三愛主義がイエスの愛から離れて形骸化していないかを繰り返し確認する必要があります。形骸化されていない本学のキリスト教、三愛主義とは、「この世を愛する神」という奨励題が示すように、学生のみなさんがありのままで受け入れられ、安心できる「人を愛す」を実践する大学として在り続けることにほかなりません。

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1taPV3BNeIWzO0d3CV8NiXb00qHKVfQSI/view?usp=drive_link