2023年6月13日の大学礼拝動画の配信
Date:2023.06.13
2023年度前学期第9回大学礼拝
【大学礼拝動画の配信】
2023年6月13日の大学礼拝動画の配信をします。
視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1BsvzmmT-5rfdCb1AA2uUHnC6fYTH2BwV/view?usp=sharing
【本日の聖書】
ヨハネによる福音書2章23−25節
【新共同訳聖書】
23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
【本日の奨励】
「本当の信頼とは」
小林昭博(宗教主任)
本日の聖書はヨハネ福音書2章を総括する「要約的報告」と呼ばれるテクストです。ヨハネ福音書2章は「カナの婚礼」(1−12節)と「宮清め(イエスの神殿での暴力)」(13−22節)のふたつの出来事で構成されていますが、その双方で「徴」(σημεῖονセーメイオン)が問題になっています(11、18節)。23節はこれらのふたつの「徴」を前提にしつつ、イエスが過越祭の間にいくつもの「徴」(σημεῖαセーメイア)を行ったと伝えています。過越祭(פֶּסַחペサハ)はユダヤ人の祖先がモーセに率いられてエジプトでの隷属状態から解放された「出エジプト」(Exodus)を記念するユダヤ教の春の祝祭です。巡礼祭でもあるので、イエスはエルサレレムに上り、そこでイエスが行った「徴」(奇跡)を目撃した多くの人たちがイエスの名を信じたと伝えられています。24−25節には、多くの人たちがイエスを信じたにもかかわらず、イエスは自分を信じた人たちを信頼しなかった理由があげられています。24−25節aでは、ヨハネ福音書の著者は全知全能の神の子イエスが今さら人間とは何かを誰かに教えてもらう必要などないと考えているようですが、現代的な説明に置き換えると、イエスは自分を信じた人たちが表面的な体裁を取り繕っているだけであり、それがある種の人間の姿であるということを嫌というほどに知っていたからだと説明できるでしょうか。後続する25節bでは、イエスは人間の内側にいったい何があるのかを熟知しているがゆえに、自分を信じた人たちを信頼しなかったとの理由が述べられています。すなわち、人間の内側に渦巻くドロドロした思いをイエスは敏感に感じ取り、信じると言って近づいてくる人たちが、自分を利用しようとしていたり、損得勘定で動いていたり、表面的なことしか見ていなかったりしているゆえに、「徴」(奇跡)を見て信じるようになったという人たちを信頼することはなかったということです。
本日の聖書はイエスを信じたと言って近づいてくる人たちが、結局はイエスの行った「徴」(奇跡)を信じたに過ぎないことを問題にしています。彼らがイエスに求めていたのはユダヤをローマから独立させる政治的・武力的メシアであり、「友のための死」(ヨハネ15:13)を実践して十字架で処刑されるメシアではなかったのです。人々の目論見とは異なり、イエスは強さを志向するのではなく、弱さに寄り添い、何ができるとか、特別な才能があるとかという部分で人を評価する社会に背を向けたのです。なぜなら、才能や能力によって評価されたとしても、それはその人の有能さが評価されたことでしかなく、その人の存在そのものが大切にされたわけではないからです。秀でた部分を評価することは容易いことですが、駄目な部分のある駄目な自分を受け入れてくれることこそが真の愛であり、本当の信頼です。優れてなくもいい、駄目な部分があってもいい。そのような自分を愛し受け入れてくれる信頼できる友がイエスだったのです。
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1BsvzmmT-5rfdCb1AA2uUHnC6fYTH2BwV/view?usp=sharing