2023年1月17日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2023.01.12

2022年度後学期第14回大学礼拝

【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1AVBZEPVDhtxp67ueThEg9Bpa3MReHsA2/view?usp=sharing

 

【本日の聖書】

ヨハネによる福音書1章35−39節

【新共同訳聖書】  

 35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

【本日の奨励】

「何を求めているのか――宗教心とは?」

 本日の聖書テクストはイエスの最初の弟子たちの召命物語が記されています。35節の「二人」は――40節で明らかになるように――ひとりはペトロの兄弟のアンデレですが、もうひとりについては不明です。しかし、アンデレが洗礼者ヨハネの弟子であったということは共観福音書では知られていない情報です。36節は29節の「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という発言を縮めたものですが、牧畜文化を背景とするユダヤ教において、イエスが人類の罪を贖う代償のメシアであることに繰り返し言及しています。37節はイエスがメシアであることを知ったアンデレたちがイエスに従ったことが報告されています。ここで用いられている「従う」という動詞はἀκολουθέω(アコルーテオー)ですが、これはイエスに対する「信従」(Nachfolge)を意味する術語です。イエスの威光に触れて即座に「信従する」(nachfolgend)描写は、マルコ1:16−20と並行する弟子召命の「理想的場面」(Idealszene)と言われています。38節は信従して来たアンデレたちとイエスの最初の対話です。「何を求めているのか」というイエスの問いは一見すると根源的問題に触れているかのようですが、アンデレたちの問いは「どこに泊まっておられるのですか」という日常的なものです。39節は召命物語のまとめとして、イエスの宿泊場所が確認されています。
本日の聖書テクストはイエスが自分に信従して来たアンデレたちに「何を求めているのか」と問い、それに対してアンデレたちが求めているのはイエスが「どこに泊まっておられるのですか」という宗教的な根源や真理とは無縁の日常的なものだったという内容です。確かに、理想的な弟子召命物語からすると、弟子の問いもまた理想的なものであって欲しいところですが、しかしヨハネ福音書はわたしたち読者の宗教心を見透かすかのように、日常の世界にわたしたちを引き戻します。どうしてなのでしょうか。
本日は1995年1月17日の阪神・淡路大震災から28年を記念する日です。わたしは1997年4月に神戸と西宮に移り住んだので、地震経験者ではありません。地震から2年を経ても震災の痛手は癒えてはおらず、地震を知らない者なりに、ボランティアの人たちや牧師たちと一緒に仮設住宅をめぐったり、炊き出しに参加したりなどをしてきましたが、1998年1月の震災記念礼拝で、地震を経験した人たちのなかで、地震を知らない者が説教で何かを語る資格があるのかと葛藤を抱いたことを想起します。そのときは自分の葛藤を含めて率直な思いを語りました。そして、今日の聖書を読んだときに、震災において教会が地域の人たちの精神的な支えだけではなく、日常の生活を支えていたことを鮮明に思い出しました。なぜなら、宗教とは二元論的に人間の内面の問題を扱うというものではなく、生活の総体を支えるものだからです。ですから、宗教心とは内面のことであると同時に日常生活に密着したことでもあるのです。その意味では、三愛主義も高邁な理念であると同時に日常生活に密着したものにする必要を痛感します。

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

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