2022年12月6日アドヴェント第2週礼拝(リモート礼拝)のお知らせ
Date:2022.12.01
2022年度後学期第11回大学礼拝
【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1JzPKJyA7APOAvlzVzXaQkKUxMo-XsbXd/view?usp=sharing
【本日の聖書】
ヨハネによる福音書1章29−31節
【新共同訳聖書】
29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
【本日の奨励】
「世の罪を取り除く神の小羊――牧畜文化の信仰」
本日の聖書は牧畜文化で生まれたユダヤ・キリスト教の贖罪信仰に言及しています。イエスがなぜこの世に生まれたのか、ヨハネ福音書はその意味を知らせようとしていますので、アドヴェントのこの期間に本日の聖書を通して一緒に考えてみたいと思います。29節は洗礼者ヨハネが自分のもとにイエスが近づいてきたときに、この人こそが彼が預言していたメシアであることを悟り、咄嗟にイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったことが記されています。ユダヤ・キリスト教における「贖罪」は「代償」を意味することが多く、ここでは「罪を取り除く」と言われています。「取り除く」の原語はαἴρω(アイロー)ですが、これは「取り上げる」「取り去る」を意味しますので、「罪をどこかに持ち運ぶ」といったニュアンスです。また、「罪」(ἁμαρτίαハマルティア)は単数形が用いられていますので、人間の根源的な「罪」(原罪)をイエスがなきものとしてくれるという意味が含まれています。30節はヨハネがイエスの偉大さに言及していますが、「ロゴス讃歌」(1:1−18)のキリストの先在が強調されています。31節はヨハネがイエスを知らなかったことを伝えると同時に、彼が洗礼を授けているのはイエスが世に知られるようになるためだという先駆者としての役割が明示されます。ここで新共同訳聖書が「現れるために」と訳しているのはφανερόω(ファネオロオー)の接続法ですが、不正確であり、これでは意味が通りません。正確には「知られるため」や「明らかにされるため」です。つまり、イエスを知らないこの世界がイエスを――信じる前にまずは――知るようになることを願っているということです。
本日の聖書に「世の罪を取り除く神の小羊」という表現がありますが、これは元来半遊牧の民であるイスラエルの人々が羊などの家畜を飼い、その動物を屠って食していた牧畜文化が宗教文化になったことを示しています。つまり、日常から動物を屠って神に捧げ、特に年に一度の大贖罪日には羊を屠って民の罪の身代わり、代償とする動物犠牲の神殿祭儀として結実したということです。これは杜の鎮守である氏神を祀る原始神道や東南アジアの稲作文化を取り入れた古代神道といった日本の宗教文化とは異質な宗教形態をユダヤ・キリスト教が持っていることを意味します。むろん、ユダヤ・キリスト教の洗礼と神道の禊には身を清めるという共通項もありますが、動物を犠牲として捧げて人間の罪の代償とする贖罪信仰は牧畜文化の信仰として生まれたものであり、洗礼という罪を清める禊の祭儀もまた牧畜文化における贖罪信仰から生み出されたものなのです。その意味では、黒澤酉蔵が洗礼を受けてクリスチャンとなり、酪農や畜産とキリスト教を結び付け、キリスト教の贖罪信仰を強調したのも自然なことであり、アドヴェントの季節にイエスが争いや不信に満ちたこの世の罪を取り除く神の小羊として指し示されている意味を改めて想起したいのです。
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1JzPKJyA7APOAvlzVzXaQkKUxMo-XsbXd/view?usp=sharing