2022年11月22日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ
Date:2022.11.17
2022年度後学期第9回大学礼拝
【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1P_viz-fMx7C2kMliakagFaT_735B7fSg/view?usp=sharing
【本日の聖書】
ヨハネによる福音書1章19−23節
【新共同訳聖書】
19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
【本日の奨励】
「道をまっすぐにする」
本日の聖書はキリスト教が洗礼者ヨハネをイエスの先駆者として位置づける物語です。19節はユダヤ教の指導者たちが洗礼者ヨハネを終末に到来するメシアとして意識していた様子が窺えます。この背後には1世紀前半のユダヤに終末待望の期待が高まっていたという時代の雰囲気があります。20節はヨハネが自分はメシアではないことを包み隠さずに告白したと伝えています。21節はヨハネをメシアの前に到来する預言者エリヤか、それ以外の終末時の預言者の誰かなのかと問い、それに対してヨハネが明瞭に否を突きつけている場面です。22節はユダヤ教の指導者層の意を汲んだ者たちがヨハネの正体を何としても暴き出さねばならないとしている様が描かれています。23節はイザヤ書40章3節のギリシャ語七十人訳聖書からの引用であり、マルコ福音書1章3節とほぼ同じ表現によって洗礼者ヨハネの正体が描写されています。すなわち、ヨハネは主の道をまっすぐにするための荒れ野で叫ぶ声、メシアが到来したときに通るための道をまっすぐに整えるための先駆者であることを明示しているということです。
本日の聖書では、ユダヤ教の指導者から遣わされた者たちが洗礼者ヨハネの正体を暴こうとしつこく問い質しています。これほどしつこく食い下がっているのは、ユダヤ教では終末に到来するとされるメシアが世の終わりを告げ、刷新された世界を創造すると信じられていたからです。つまり、それまでユダヤ世界の支配者として好き放題してきた自分たちの繁栄に終止符が打たれることを危惧していたということです。なぜなら、メシアとはそれまで己が春を享受してきた支配者たちに引導を渡し、貧困や抑圧によって苦しめられてきた者たちが繁栄する世界を創造するために神から遣わされる存在だからです。支配者にとっては終末もメシアも自分たちの統治と繁栄を終わらせるものでしかないゆえに、もしヨハネがメシアだとすれば、自分たちの心配や不安を取り除くために、先回りしてヨハネを逮捕して処刑する必要があったのです。そして、実際に彼は処刑されます。しかし、ヨハネは自分がメシアではないと断言し、「主の道をまっすぐにする」ための先駆者であると語っています。「まっすぐにする」には「正しくする」という意味もあるのですが、これはどの時代にも通底する支配者による社会的不正や混乱を終末のメシアに他力本願的に丸投げにする無責任さを戒め、人間がこの世界の問題を自分の問題として誠実に応答するように求めているのです。本学もまたこの世界の問題を自分たちの問題として引き受け、「道をまっすぐにする」使命を果たしていきましょう。
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1P_viz-fMx7C2kMliakagFaT_735B7fSg/view?usp=sharing