2022年11月8日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ
Date:2022.11.02
2022年度後学期第7回大学礼拝
【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1lcltkFSi8E_2NkaIn3ECUoTbS_EdvmFv/view?usp=sharing
【本日の聖書】
ヨハネによる福音書1章14節
【新共同訳聖書】
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
【本日の奨励】
「受肉――歴史のイエス」
ヨハネ1:14は「受肉」(ラテン語incarnaito)と呼ばれるキリスト教の教理、すなわちイエスが実際に人間としてこの世に生を受け、ひとりの人間として地上の生涯を歩んだという教理の典拠とされる聖書テクストです。14節冒頭の「言は肉となって」の「なる」はγίνομαι(ギノマイ)という動詞ですが、これは「(別の状態に)なる」だけではなく、「(生命が)生まれる」や「(物事が)生じる」(出来事が)起こる」といった意味もありますので、イエスが肉体を持った人間としてこの世に生まれ、イエスが歴史上に現れたことを示しています。続く「わたしたちの間に宿られた」の「宿る」はσκηνόω(スケーノオー)という動詞ですが、これは「テント/幕屋」を意味するσκηνή(スケーネー)から派生した動詞ですので、イエスが実際にこの世界にひとりの住人として暮らしていたことを強調しています。14節後半の「わたしたちはその栄光を見た」の「栄光」とは天地万物の創造以前から先在するロゴスの栄光を表しますが、おそらく復活したイエスの栄光をも包含しているものと考えられます。「栄光」の原語はδόξα(ドクサ)ですが、この語の本来の意味は「反映」や「反射」ですので(「〜に見える」を意味するδοκέωドケオーに由来)、「栄光」とはその存在から反射して放たれる「光輝」のことであり、人間が見ている「栄光」とは、神そのものではなく、神から反射されている「光輝」にほかならないという考えがあります(ヨハネ1:18「神を見たものはいない」参照)。しかし、ヨハネ福音書は神の栄光ないし光輝を反映するイエス・キリストを「見た」と敢えて述べることで、イエスが歴史上に実在していたことを証言しているのです。そして、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」という14節を締め括る言葉を通して、イエスが確かに恵みと真理に満ちた「神の子」であり、同時に肉体を持った現実の「人間」でもあったという後のキリスト教の公会議(世界教会会議)の争点となる「両性説」(イエス・キリストは全く神の子であり、同時に全く人間でもあったとする教理)の典拠ともされています。
ヨハネ福音書がイエスの実在を強調するのは、グノーシス主義の霊肉二元論によって、イエスが肉体を持っていたことが否定され、「仮現論」(ラテン語docetismus<δοκέωから派生)と呼ばれる、イエスは肉体を持っていたのではなく、肉体を持っているように見せていた、すなわちイエスの肉体は仮の姿であり、本来は肉体を持たない霊的な存在であったとする教説を批判しているからです(Ⅰヨハネ1:1−4参照)。現代人にはこの議論自体が理解し難いとも思いますが、仮現論が否定され、両性説が最終的に合意されるには、553年の第5回コンスタンティノポリス公会議を待たねばならないのです。イエスが現実に存在していたとする「歴史のイエス」が確定するには、これほどの膨大な時間と労力が費やされていたのです。むろん、その陰では「大教会」(正統主義教会)から「異端」とされて歴史の闇に葬られた多くの者たちがいたことを忘れることはできません。このようにキリスト教教理史を繙くだけでも、ひとつのことを究めるのがいかに大変であり、その陰で多くの犠牲が払われていたことが窺われます。これはどの分野にも通底するものだということを忘れることはできません。
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1lcltkFSi8E_2NkaIn3ECUoTbS_EdvmFv/view?usp=sharing