2022年10月4日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2022.09.29

2022年度後学期第2回大学礼拝

【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

    https://drive.google.com/file/d/1uWxKMK1q4j6g-90nHh_M2IgyTHQW61p9/view?usp=sharing

    【本日の聖書】

    ヨハネによる福音書1章4−5節

    【新共同訳聖書】  

     4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

    【本日の奨励】

    「闇の中の光」

     ヨハネ1:4−6は先週お話ししましたように1:1−18の「ロゴス讃歌」の一部であり、ロゴス(言葉/理性)の内にある「命」を「光」と呼び、その「光」が「闇」のなかにある一縷の輝きであると言っています。ロゴス讃歌は詩文であり、しかも宗教的・哲学的な思弁が語られていますので、ヨハネの独特な神学思想に慣れないと、何を言っているのかさえ分からないこともありますので、順を追って読み進めてみたいと思います。
    3節後半から4節前半はギリシャ語の区切り方に諸説があり、奨励では新共同訳聖書の読み方に従って読むことにしますが、4節は「ロゴス」(言葉/理性)であるイエスの内に「命」が宿っており、その「命」が人間に与えられた「光」だと言っています。詩文ですので、論理的というよりは情緒的ですので、そのまま読んでも理解が難しいのですが、おそらくロゴスと命と光が同じものだと言いたいのではないでしょうか。つまり、ロゴスも命も光も全てイエス・キリストを表していると言っているということです。5節後半を新共同訳は「暗闇は光を理解しなかった」と訳しています。「理解する」と訳されているのはκαταλαμβάνω(カタランバノー)というギリシャ語です。その本来の意味は「捉える」や「掴む」ですが、そこから派生して、「理解する」(新共同訳)や「勝利する」(口語訳聖書、協会共同訳、新改訳2017)という訳語を充てられるようになりました。ここで「光」はイエス・キリストを表し、「暗闇」は「この世/この世界」を意味します。ヨハネ福音書は二元論的世界観を背景としていますので、これらの日本語訳聖書は「光と闇」が「イエス・キリストとこの世」の対立を表していると考えています。新共同訳の「理解する」は、この世がイエスを理解せずに、イエスを死に追い遣ってしまったこと念頭に置いて、この世の愚かさを表現しています。そして、口語訳聖書、協会共同訳、新改訳2017の「勝利しなかった」は、光であるイエスに闇である悪魔が勝利できなかったという終末論的な神と悪魔の最終決戦という神話的表象を言い表しています。しかし、これらの解釈はいずれも不正確です。おそらく、ここでは創世記の天地創造が意識されており、天地創造前の世界が混沌(カオス)であった闇のなかで、神が「光あれ」と言ったことから全てが始まったという創世記の神話が前提となって、「闇は光を捉えなかった」という詩的な表現によって、ヨハネは「光と闇」が全く異質なものであるということを伝えていると考えられるからです。
    闇と光が全く異質なものであるというのは、両者が決して共存することができないことを意味します。日常生活に闇がなくなった日本では闇を経験することはありませんが、例えば沖縄のガマのような本当の暗闇では、目の前に手を持ってきても全く何も見えません、しかし、そこにほんの僅かな明かりを灯すだけでも、闇は消えてなくなります。日本社会には光(希望)がなくなっているような厭世観や虚無感が漂っています。政治も社会も何も変わらないし、だから変えようとも思わないという悪循環がはびこっています。しかし、夢のように大きな光(希望)が必要なわけではありません。ほんの僅かの光(希望)が夜の闇を消し去り、昼の光に変える一歩になるからです。闇のような世界を悲観するのではなく、学生のみなさんがこのキャンパスに息づいていることが、この闇の世界に明かりを灯し続けてくれる「闇の中の光」であり、この世界の希望だと信じています。

     

    礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

    https://drive.google.com/file/d/1uWxKMK1q4j6g-90nHh_M2IgyTHQW61p9/view?usp=sharing