2022年7月12日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2022.07.07

2022年度前学期第13回大学礼拝

【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

    https://drive.google.com/file/d/1np83oKe2_hEcDm8d4KPI3kULxXPu6EqZ/view?usp=sharing

    【本日の聖書】

    フィリピの信徒への手紙4章10−14節

    【新共同訳聖書】  

     10さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。11物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。13わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。14それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

     

    【本日の奨励】

    「大変なときにこそ」

     パウロの手紙の殆どは深刻な内容で編まれています。古代地中海世界は海路や陸路の交通手段が整っており、貿易も盛んでしたので、手紙を用いた連絡も頻繁に行われていました。とはいえ、紙は貴重で高価な時代でしたので、簡単には連絡は取れませんから、大きな問題に対処するために手紙を送っていたゆえに、パウロの手紙も深刻な内容が目立つのだと考えられます。しかし、フィリピ書は「喜びの手紙」という呼び名の通りの明るい内容であり、パウロが前向きな内容の手紙を送ることができたのはフィリピの人たちとの変わらぬ信頼関係が続いていたからにほかなりません。
    10節で新共同訳聖書が「表してくれた」と訳しているἀναθάλλω(アナタッロー)は新約聖書ではここにしか用いられていないのですが、ἀνάアナ)+θάλλω(タッロー)で「再び花開く」や「再び芽を出す」という意味の動詞です。ここではフィリピの人たちがローマで拘禁生活を強いられているパウロに再び色々な支援をしてくれたことを表しますので、軟禁中という冬のような生活にあって、フィリピの人たちの気持ちがパウロに春の芽吹きのように希望を与えてくれたことが伝わってきます。11節の「満足」の原語のαὐτάρκης(アウタルケース)はストア哲学の禁欲主義の「自足」を表す術語であり、ストアと異なるのは、13節にあるように、自足の根拠が自分の努力よりも神によって実現可能なことにあります。12節の「秘訣を授かっています」と訳されているμυέω(メウオー)は、密儀宗教において「密儀・秘儀(ミュステーリオン)を授ける」や「(密儀宗教の)イニシエーションに与る」という意味の単語であり、新約聖書ではここにしか現れないということもあり、いささか大袈裟な感じがします。13節は先にも触れたように神こそがパウロの力の源であるとの物言いですが、「強めてくださる」と訳されているἐνδυναμόω(エンデュナモオー)は「内側に力を与える」という密儀宗教の用語ですので、内面的・精神的な力を与えられることを意味します。14節の「共にしてくれる」はσυγκοινωνέω(シュンコイノーネオー)という合成語が使われており、「共同で参画する」といった意味合いですので、苦難のときに特別に助けてくれたことに感謝しているというよりも、苦しいときに助けるのは当然のことだと言っているのです。
    パウロの拘禁生活を誰よりも支えていたのは、深い信頼関係で結ばれていたフィリピの人たちでした。それゆえ、パウロもフィリピの人たちも、互いが大変なときに互いを支えるのは言わば当たり前だと感じていたようです。大変なときに支えてくれる人が神々しく見えることもある世知辛い世の中ですが、「大変なときにこそ」当たり前のようにさらりと互いを支え合える信頼関係で結ばれた酪農学園大学でありたいと思うのです。

     

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