2022年6月21日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2022.06.16

2022年度前学期第10回大学礼拝

【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】

 

礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

    https://drive.google.com/file/d/1Z8fJ9Pi-3iz2PKY_iEssaUnDD1HNba6H/view?usp=sharing

     

    【本日の聖書】

    フィリピの信徒への手紙4章6−7節

    【新共同訳聖書】  

     6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

     

    【本日の奨励】

    「心を許せる存在」

     フィリピ4:6−7は思い煩うことを止め、神に感謝と祈りを捧げることによって平安に包まれるという内容から、教会やキリスト教主義学校で愛唱聖句として掲げられることの多い聖書箇所です。6節aの「思い煩う」(μεριμνάωメリムナオー)は「気遣う」というポジティヴな意味でも用いられますが、「思い煩う」や「不安になる」といったネガティヴな意味で使われることが多い動詞です。心理学では「心配」と「不安」を別様に説明しますが、双方の違いは「心配」が具体的な問題や課題に対するものであるのに対して、「不安」は実際には起こっていないことや漠然としたことに対するものだと言います。確かにわたしたちは杞憂で疲れ切ってしまうこともありますので、思い煩って不安に陥ることから自由になれたらと思わずにはいられません。6節bは思い煩いの反対の在り方として「感謝」を強調し、祈り、願い、求めることで、自分の心の内奥を神に打ち明けるように勧めています。これは我執を棄てて神に全てを委ねる姿勢――仏教で言う他力本願の在り方――を表します。7節の「人知」の原語はνοῦς(ヌース)ですが、これは人間の知性や感性の座である「理性」や「叡智」を表します。したがって、7節が言う「あらゆる人知を超える神の平和」とは、我執を棄てて神に全てを委ねるときに経験する宗教的な境地を言い表しているのだと思います。日本の宗教文化に置き換えると、悟りの境地や座禅の三昧の境地として知られる宗教経験と通底するのかもしれません。
    本日の聖書で特に注目をしたいのは。6節の「求めているものを神に打ち明けなさい」という箇所です。ギリシャ語の原文は直訳すると「あなたたちの求めを神に知られるようにしないさい」となるのですが、新共同訳聖書はカトリックの「告解/懺悔」(ゆるしの秘蹟)のイメージを込めて「打ち明ける」としています。この聖書を読むと、哲学者の森有正(1911〜1976年)の次のような神観を想い起こします。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考え方がありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、どうも他人に知らせることのできない心のひと隅というものがあります。人にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている。そういう心のひと隅というものがある。人間が誰はばからず喋ることの出来る観念や思想や道徳や、そういうところで人間は、誰も神さまに会うことができない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる、恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことができない」(『土の器に』日本基督教団出版局、1976年所収「アブラハムの信仰」)。
    森有正は思い煩いを止め、誰にも明かすことのできない自分の内面の最も深い部分を打ち明けることのできる唯一の存在が神だと言っています。学生のみなさんにとって、心奥を打ち明けられる存在はいったい誰でしょうか。讃美歌312番の「いつくしみ深き友なるイエス」のように、「心を許せる存在=友人」と酪農学園大学で出会えるよう願っています。

     

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