2021年11月16日の大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ
Date:2021.11.11
2021年度後学期第9回大学礼拝
【リモート礼拝(礼拝動画の配信)】
礼拝動画の視聴にさいしては、以下のリンク(
https://drive.google.com/file/d/1WcmWFhflZUaBenNNl-Wd1eZeTrPo8DVP/view?usp=sharing
【本日の聖書】
フィリピの信徒への手紙2章17−18節
【新共同訳聖書】
17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
【本日の奨励】
「喜びの手紙――逆説的な喜び」
フィリピ2:17−18はこの手紙が喜びの手紙と称される所以が記されています。しかし、それは決して安直な喜びではなく、パウロが自らの処刑死を予期しつつ語る悲しいまでに透徹した思いから発せられている喜びです。
17節は解釈上難しい問題があります。それは新共同訳聖書が「血が注がれる」と訳す部分の解釈をめぐる問題です。ギリシャ語原文を直訳すると、「しかし、もしわたしがあなたたちの信仰の犠牲と奉仕〔礼拝〕の上に注がれるとしても、わたしは喜びます、あなたたち全員と一緒に喜びます」となります。新共同訳はパウロが自らの殉教の死を予期していると解して、原文にはない「血」という単語を補い、「血が注がれる」と翻訳しています。ここで使われているのはσπένδω(スペンドー)というギリシャ語ですが、「神に酒を献げる」ときに使われる動詞であり、古代ギリシャですから「ワイン」を神に献上したのですが、日本の「お神酒を献げる」のと同じ意味合いと考えて差し支えありません。もっとも、パウロが自分を「お神酒として神に献げる」というのでは意味をなしませんので、パウロが自らの殉教の死を予感しているという状況から、σπένδωの受動相を「犠牲として注がれる」=「犠牲として献げられる」と解し、「血が注がれる」と踏み込んだ解釈をするようになったものと思われます。さらに、自らの処刑死を悟ったパウロはフィリピの教会の人たちに「わたしは喜びます、あなたたち全員と一緒に喜びます」と宣言します。そして、パウロは続く18節でも、フィリピの教会の人たちにパウロと一緒に喜ぶように重ねて勧めているのです。
本日の聖書には「喜ぶ」と「一緒に喜ぶ」という単語が2度ずつ用いられ、4度も繰り返して「喜ぶ」という言葉が修辞的に強調されて現れます。まさにこの手紙が「喜びの手紙」と称される所以がこの短い箇所から伝わってきます。奨励の最初に述べたように、パウロは自らの死を予期しつつ、自分を鼓舞するだけではなく、フィリピの教会の人たちにも喜ぶように勧めています。しかも、18節の冒頭には新共同訳が「同様に」と訳しているτὸ αὐτὸ(ト・アウト)という表現があるのですが、これは「そのことを」ないし「同じことを」を意味しますので、パウロは自らが処刑されたとしても、自分が喜ぶのだから、その処刑死を一緒に喜んで欲しいと勧めているのです。むろん、このように勧められても、パウロを大切に思うフィリピの教会の人たちが喜ぶことなどできなかったことは明らかです。では、なぜパウロは処刑死という不可逆的かつ究極的な「悲しみ」を「喜び」として宣言するようなことを敢えてしたのでしょうか。直前の2:16にあるように、それは自らの使命にそれこそ命懸けだったパウロが、その使命をフィリピの教会の人たちが受け継いでくれると信じて託したからにほかなりません。それと同様に、酪農学園も先人から使命を受け継ぎ、次世代のみなさんにその使命を託していくことができるのです。時代が厳しければ厳しいほど、ひとりひとりがその使命に全身全霊を傾けることによって、この厳しい時代を歩んでいくことを逆説的に「喜び」とすることができると信じています。
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