2021年7月27日大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2021.07.21

2021年度前学期第15回

大学礼拝(リモート礼拝)

礼拝動画の配信

 

聖書とメッセージの動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1PYaB-6WctIr9OkkRTj2owvq5-sHMsVFL/view?usp=sharing

 

 

聖書 フィリピの信徒への手紙1章18b−20節

奨励 「生涯の使命を見つける」小林昭博先生(宗教主任)

 

【本日の聖書】

フィリピの信徒への手紙1章18b−20節

【新共同訳聖書】

18bこれからも喜びます。19というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。20そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

 

【本日の奨励】

「生涯の使命を見つける」

パウロは自らの使命をキリストの福音の宣教と信じ、その使命に生涯を捧げた人物です。本日の聖書は自らの使命に賭けるパウロの並々ならぬ思いが記されています。では、1節ずつ順を追って読み進めて参ります。
18節後半の「喜びます」はギリシャ語では未来形が用いられていますので、「わたしは喜ぶでしょう」や「わたしは喜ぶことになるでしょう」というパウロの未来の喜びを先取った発言です。つまり、18節前半までのパウロの拘禁生活に対する批判に苦悩する現在の状況から打って変わって、終末の未来に約束されている救済に与る喜びに思いを移しているということです。19節はパウロが未来の救済に与ることを約束されている理由が自分自身の現在の拘禁生活のゆえであると語っています。つまり、パウロが拘禁生活を余儀なくされているのはキリストの福音を宣教したためであり、したがってキリストゆえの迫害(苦難)こそが未来の救済を約束するものであるというキリスト教の通念が語られているということです。この背後には、古代ユダヤ教において来世信仰が誕生していった経緯が関係しています。というのは、元来ユダヤ教はこの世で神の前に生きるという「此岸性(Weltlichkeit)」(ヴァルター・ツィンマリ)を中心とする一元論の宗教だったのですが、紀元前6世紀のバビロン捕囚を契機として、現世の苦悩を耐え忍んで来世に希望を託さざるを得なかったことから来世信仰が誕生し、終末信仰やメシア信仰という二元論の宗教に展開していったという経緯があるからです。このようなユダヤ教の歴史的・宗教史的展開から考えると、パウロが拘禁生活という現世の苦悩を耐え忍ぶために終末信仰を強めていったことは当然のことだったと言えるのです。20節で新共同訳聖書が最後に訳出する「切に願い、希望しています」という文章はギリシャ語原文では20節の冒頭にあり、19節とひと続きの文章です。したがって、この文面は19節で語られている未来の救済に与ることこそがパウロの切なる願いであり希望であると述べているのです。20節の残りの部分は「生きるにも死ぬにも」キリストの福音が広がっていくのであれば本望であるとのパウロの思いが綴られています。「生きるにも」とはパウロが拘禁生活を解かれて自由になれば、再び宣教活動に従事して福音を広めていくことができるということを表し、「死ぬにも」とはパウロがこのまま殉教の死を迎えるとすれば、その姿に胸を打たれる人たちを通してローマ世界にキリストの福音が広がっていくという希望を言い表しています。
このような思いを語るパウロは殉教の死を遂げました。もっと生きて欲しかったと思います。しかし、「生きるにも死ぬにも」と言える生涯の使命を持つことのできたパウロは幸せだったとも思います。みなさんがパウロのように自らの「生涯の使命を見つける」ことができることを願っています。そして、みなさんが「生涯の使命を見つける」ことができる学び舎として酪農学園大学がその使命を果たし続けるように尽力して参ります。

 

 

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