2021年6月29日大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2021.06.25

2021年度前学期第11回

大学礼拝(リモート礼拝)

礼拝動画の配信

 

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聖書 フィリピの信徒への手紙1章7−8節

奨励 「内奥から欲するほどに」小林昭博先生(宗教主任)

 

【本日の聖書】

フィリピの信徒への手紙1章7−8節

【新共同訳聖書】

7わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。8わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

 

【本日の奨励】

「内奥から欲するほどに」

本日の聖書はフィリピの教会に対するパウロの思いが率直に述べられています。手紙というのは、古代でも現代でも様式に則って書かれますので、どこか形式的に感じてしまうものなのですが、パウロの手紙には彼自身の思いがあからさまなほど率直に記されています。本日の聖書はフィリピの人たちに対するパウロの熱い思いがまさに直截に伝えられていますので、そこに焦点を当てて読み進めていきたいと思います。
7節は直前の3−6節で述べられているフィリピの人たちに対するパウロの感謝の気持ちが、彼自身のカイサリアやローマでの拘禁(軟禁)生活という逆境にあっても、地中海世界において福音宣教に邁進するという順境にあっても、互いを思い続けてきたことを根拠とするものであるゆえに、当然の表れだと語られています。したがって、ここで用いられている「共に恵みにあずかる者」という表現は、恵まれた順境だけではなく、迫害に遭う逆境をも一緒に乗り越えて来たことを強調しているのです。確かに、順調なときには黙っていても人は寄って来ますが、逆風が吹いたり失敗したりするときには、気づいたら周りに誰もいないという状況もありますので(パウロの経験!)、大変なときに共にいて支えてくれる人こそが「共に恵みにあずかる者」だというパウロの気持ちは、痛いほど身に染みます。
8節はパウロのフィリピの人たちに対する思いがイエスの「感情」に根差すものであり、そしてその思いはほかならぬ神が証ししてくださるとの確信が語られています。8節で着目したいのは、「キリスト・イエスの愛の心で」と「どれほど思っているか」というふたつの表現です。前者は正確には「キリスト・イエスの感情において」ないし「キリスト・イエスの感情の中で」と訳せるのですが、新共同訳聖書が「愛の心」と訳している名詞のσπλάγχνον(スプランクノン)は、「内臓」が原意です。これは古来「内臓」に「感情」が宿っていると考えられていたことに由来するものであり、日本語の「心が痛む」「心が躍る」「断腸の思い」などの「内臓」を用いた表現と通じるものがあります。そして、後者の正確な訳は「どれほど欲しているか」となりますが、新共同訳が「思っている」と訳しているἐπιποθέω(エピポテオー)は「強く欲する」や「切望する」といった非常に強い意味の動詞です。つまり、パウロはここでフィリピの人たちのことを「思い遣っている」のではなく、相手を自分のものにしたいかのように「強く欲している」との思いを吐露しているのです。すなわち、8節のパウロのフィリピの人たちに対する思いとは、「キリスト・イエスの内臓=感情」という「内奥から欲すほどに」強く熱い思いだということを伝えているのです。
パウロのように他者を強く熱く思うことは現代社会では「ウザい」こととされ、斜に構えて上から目線で相手を突き放して「論破」することをカッコいいとする風潮があります。この背後には政治家の白々しい言葉に対する不信があると思いますが、しかしこれは教育も含めた日本社会全体の問題でもあります。キリスト教主義教育を掲げる本学も「内奥から欲すほどに」強く熱い思い学生と共有できているのかを今一度省みたいのです。

 

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