2021年6月15日大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2021.06.11

2021年度前学期第9回

大学礼拝(リモート礼拝)

礼拝動画の配信

 

聖書とメッセージの動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

https://drive.google.com/file/d/1WCjv6dDpMKP56BBwzXr253jTp3iCXPbo/view?usp=sharing

 

聖書 フィリピの信徒への手紙1章1−2節

奨励 「恵みと平和の挨拶を送る」小林昭博先生(宗教主任)

 

【本日の聖書】

フィリピの信徒への手紙1章1−2節

【新共同訳聖書】

1キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。2わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 

【本日の奨励】

「恵みと平和の挨拶を送る」

前回の礼拝で2020年度後学期から読み続けてきたヤコブ書を読み終え、今回の礼拝からはフィリピ書を読み進めて参ります。リモート礼拝ではこちらからみなさんの顔が見えませんし、ワンオペで礼拝動画を作成しているということもあって、独り善がりになっているのではと心配しているのですが、感想をお寄せくださる方々、礼拝の動画がちゃんとアップされているのかを事前に確認してくださる方々、対面でお会いしたときに感想を言ってくださる方々がいらっしゃることで、こちらが励まされています。

うのでしょうか、医療の逼迫、緊急事態宣言、オリンピックの開催等で閉塞感が社会全体を覆い、健康不安、経済不安、政治不信によって心配や不安や不満が増し、身体的にも精神的にも不調をきたす方も多いように思います。特に、学生たちは心配や不安や不満に加え、キャンパスライフを謳歌できずに淋しい思いをしているのではないでしょうか。このような時代の直中で、フィリピ書が語る喜びと希望の言葉を一緒に学んでいくことで、少しでも元気になることができればとの思いでいます。

パウロは50年代後半にエルサレムでキリスト教を宣教した廉で捕らえられ、ローマの駐屯地カイサリアでの2年間の獄中生活を経て、ローマで軟禁状態に置かれ、その後おそらく処刑されたと考えられます。フィリピ書はそのパウロが60年代初頭にローマで著した手紙であり、獄中書簡と呼ばれています。したがって、「喜びの手紙」と呼ばれているフィリピ書は、実際にはローマの監視下で軟禁状態に置かれていたパウロが著したものであり、「喜び」とは正反対の状況で書かれたものなのです。

フィリピ1:1−2は手紙の「前書き」であり、「発信人・受信人・挨拶」の三要素で構成されています。1節前半では発信人パウロと共同発信人のテモテの名があげられ、「キリスト・イエスの僕」という肩書きが付されています。パウロとテモテは自らを「僕」と呼ぶことで、「仕えられる者」よりも「仕える者」として生きることが大切だということを伝えているのです。1節後半には「受信人」として「聖なる者」「監督」「奉仕者」が列挙されています。「監督と奉仕者」はフィリピの教会の責任者を表しますが、「聖なる者」という表現はフィリピの人々に対する最大の讃辞であり、双方の信頼関係が伝わってきます。2節の「挨拶」はパウロ独自の定式を持っており、「恵みと平和」の組み合わせはユダヤ世界の挨拶とギリシャ世界の挨拶をアレンジして組み合わせたものです。これは挨拶であると同時に、祝福の祈りでもあります。「恵み」はギリシャ語の挨拶の「お喜び申し上げます」と語源を同じくするパウロが好んで使う語であり、「平和」はヘブライ語の挨拶として「安全」をも意味します。パウロは手紙の冒頭で両者を組み合わせた「恵みと平和の挨拶を送る」ことで、フィリピの人々に「恵みと平和」(喜びと安全)が溢れるように祈っているのです。なぜなら、獄中という「恵みと平和」とは正反対の窮状に置かれていたからこそ、その尊さをパウロは誰よりも身に染みて知っていたからなのです。

聖書とメッセージの動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。