2021年5月11日大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2021.05.06

2021年度前学期第4回

大学礼拝(リモート礼拝)

礼拝動画の配信

 

聖書とメッセージの動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

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聖書 ヤコブの手紙5章9−11節

奨励 「諦めない心」小林昭博先生(宗教主任)

 

【本日の聖書】

ヤコブの手紙5章9−11節

【新共同訳聖書】

9兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。10兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。11忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

 

【本日の奨励】「諦めない心」

本日の聖書テクストのヤコブ5:9−11は、間近に迫る世の終わりに備え、終末時の最後の審判までの困難な時代を「諦めない心」で歩むように勧めています。現代世界のわたしたちからすると、このような終末論は古色蒼然とした古代世界の宗教観・世界観にしか映らないかもしれませんが、新型コロナウイルスのパンデミックという一大危機の直中を生きる現代の状況を考えると、一笑に付してしまえるものではないのかもしれません。

9節は終末時の最後に審判において神が人間を天国か地獄にその行き先を定めるという宗教観を前提にしています。「裁く方」という表現は神が最後の審判の法廷の「裁判官=審判者」であること示しています。ですから、ユダヤ・キリスト教では神は仏の役割を担っていると同時に閻魔大魔王の役割をも担っていることになります。そして、「戸口に立つ」という表現からは世の終わりの逼迫度が伝わってきますので、もはや互いに不平や不満をぶつけ合っている段階ではないというヤコブ書の危機意識が垣間見えます。10節は旧約聖書の預言者たちが人々に「悔い改め」を呼びかけたとき、たとえ誰からも相手にされなくとも、希望を失わなかったことを模範にするように促しています。11節は忍耐の象徴とされる旧約聖書の義人ヨブが引き合いに出され、彼が自らの生命以外の全てを不条理に奪われてもなお希望を持ち続け、最終的に神に嘉せられた姿を想起させます。

今日の聖書は終末が逼迫していると信じていた教会内に混乱が起こり、相互不信や不和が満ちていた状況に対して、互いに不平を言わず、忍耐するように勧めています。現代世界でも、新型コロナウイルスの影響で生命、健康、経済等々において余裕がなくなり、相互不信や不和が満ちています。ヤコブ書は危機の直中でヨブを模範として示していますが、それはヨブが家、財産、家族、友人を含めた全て失い、本当に孤独に棄て置かれても、なおも希望を持ち続けて忍耐する「諦めない心」を持っていたからにほかなりません。そのようなヨブだからこそ、最終的にヨブは神に嘉せられたとヤコブ書は伝えているのです。11節で「憐れみ深い」と訳されているπολύσπλαγχνος(ポリュスプランクノス)は、内臓を抉られるような憐れみの感情に溢れることを意味します。それが孤独に置かれてもなお「諦めない心」を持った人に対する神の深い憐れみの感情だとヤコブ書は伝えています。しかし、現実の世界には神が直接に現れてくれることはありません。孤独に置かれている人、困難と孤独に置かれてもなお「諦めない心」を持っている人は周りにいるはずです。あるいは自分自身がそうかもしれません。そういったときに、内臓を抉られるような深い慈しみと憐れみに溢れた気持ちで互いに接することのできるわたしたちでありたちと願います。

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