2020年11月24日大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2020.11.19

2020年度後学期第9回

大学礼拝(リモート礼拝)

聖書の言葉とメッセージの動画の配信

 

聖書とメッセージの動画の視聴にさいしては、以下のリンク(Google Drive)をクリックしてください。

 

https://drive.google.com/file/d/1qURH16dNXYbAtdRa_bKCWdoPvTT-d0tx/view?usp=sharing

 

聖書 ヤコブの手紙2章14−26節

奨励 「信仰と行為」小林昭博(宗教主任)

 

【本日の聖書】

ヤコブの手紙2章14−26節

14わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。18しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。19あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。20ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。21神がわたたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。23「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。25同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。26魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 

【本日の奨励】「信仰と行為」

去る1031日は宗教改革記念日でした(ハロウィンだけではないのです!)。15171031日にマルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の門に95ヶ条の提題を掲示し、宗教改革が開始されました。ルターはパウロの「信仰による義」の教えを展開させ、人は律法の行いによってではなく、信仰によってのみ神に正しいと認められて救われるとする信仰義認の教説を唱えました。これが宗教改革三大原理のひとつである「信仰のみ」(sola fidei)の教理です。なぜ、このような説明をしたのかと言いますと、実はヤコブ書はルターによって「藁の書簡」(無価値な文書)と断じられているからです。そして、その理由は「信仰は行いよって明らかとなる」や「行いを伴わない信仰は死んだもの」というヤコブ書の主張が「信仰義認の教説」に反するからにほかなりません。おそらく、ヤコブ書はパウロの「信仰による義」の教えが曲解され、信仰さえあれば救われるのだから、困っている人がいても何もしなくてもいいという風潮を憂い、富める者が優遇されて貧しい者が虐げられている状況を問題視しているのです(2113参照)。それゆえ、ヤコブ書はユダヤ教の始祖アブラハムのイサク献供の故事(創世22119)を典拠として示し、「信仰と行為」は分別することのできないものであり、信仰とは自分の救済のためだけにあるのではなく、困っている人を助ける隣人愛の実践として顕されると述べることによって、ほかならぬパウロが強調した隣人愛の大切さをヤコブ書の読者に想い起こさせているものと思われます。このことを本学に当てはめて考えると、キリスト教主義と建学の精神もまた「理念と実践」(信仰と行為)とが分別できるものではないということを再確認することへとわたしたちを誘うのみならず、ひとりひとりが困っている人を相互に助け合い、支え合う隣人愛を実践するように訴えかけていると言えるのではないでしょうか。

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