2020年11月10日大学礼拝(リモート礼拝)のお知らせ

Date:2020.11.04

2020年度後学期第7回

大学礼拝(リモート礼拝)

聖書の言葉とメッセージの動画の配信

 

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聖書 ヤコブの手紙1章25−26節

奨励 「真の宗教とは」小林昭博(宗教主任)

 

【本日の聖書】ヤコブの手紙1章25−26節

26自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

【本日の奨励】「真の宗教とは」

本日の聖書テクストであるヤコブ1:26−27は、「真の宗教とは」口先だけのものではなく、孤児や寡婦といった困窮している人の面倒を見るといった現実の慈善行為であり、この世界の価値観の対極にある生き方をすることだと伝えています。では、1節ずつ読み進めていきたいと思います。
26節で「信心深い者」と訳されているギリシャ語はθρησκὸς(トゥレースコス)という形容詞を名詞化したものですが、「信心深い」といった内面的な意味ではなく、「宗教的行為に熱心な者」を表します。ですから、この場合は礼拝に熱心に通い、教会で祈ったり讃美したり、捧げ物をしたりするといった宗教的務めを熱心に果たしている者のことを指しているのですが、いかに宗教的に熱心であったとしても、舌を制することができなければ、その人の宗教的行為は無価値だと言っています。「舌を制することができない」とは、1:19−21節の奨励でも説明したように、自分の考えを押し付けて相手を自分の意のままにしようする怒りに支配されている人のこと表します。したがって、その人がいくら宗教的行為に熱心であっても、他人を意のままに操り、怒りに支配されているとすれば、その生き方は欺瞞でしかなく、自分を欺くものでしかないと伝えているのです。
27節の「信心」は26節のθρησκὸςの名詞形であり、「宗教的行為」を表します。したがって、27節は正確には「神にとって清く穢れのない宗教的行為」について語っています。では、ヤコブ書が教える「宗教的行為」とはどのようなものでしょうか。それは困窮している孤児や寡婦の面倒を見るといった現実の行為にほかならず、それはまさにこの世界の価値観の対極にある一点の汚れすらない生き方だと力説しています。ヤコブ書が孤児や寡婦を支える生き方を清い生き方だと特に強調しているのは、古代世界において孤児や寡婦が人間としての尊厳や権利を不当に奪われていた苛酷な状況があったからです。それゆえに、ヤコブ書は真の宗教的行為とは教会の礼拝で祈ったり讃美したり、捧げ物をするといった儀礼行為ではなく、困窮する孤児や寡婦の面倒を見る慈善行為だととりわけ強調しているのです。しかしながら、ヤコブ書は決して礼拝などの宗教的行為に意味がないと言っているわけではありません。困窮する人たちを放っておいたままにして、宗教的行為にいくら熱心に励んだとしても、神はそれを喜びはせず、神に対する熱心さと同じ熱心さで困窮している人を支えたとき、初めて神はその行為を喜ぶということを伝えているのです。
現代社会を見てもそうですが、孤児や寡婦は公共の福祉では十分に支えられることはなく、却って犯罪などで利用されたり、搾取されたりしているのが実情です。それがこの世界の社会的困窮者に対する現実の在り方です。それゆえにこそ、ヤコブ書は「真の宗教とは」この世界の価値観の対極にある困窮する人を支える生き方だとわたしたちに伝えているのです。

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