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2018年1月30日大学礼拝(2017年度最終礼拝)の案内

掲載日:2018.01.23

2017年度後学期第15回大学礼拝

日時:2018年1月30日(火)10時40分
場所:黒澤記念講堂
聖書:マタイ福音書5章43−44節
奨励:「愛敵の教え——隣人と敵の脱構築」                
   小林昭博

次回の礼拝は2017年度の最終礼拝となります。学生のみなさん、教職員のみなさん、大学礼拝を通して、
この一年を振り返りつつ、心を落ち着ける時間をお過ごしいただければと願っています。

奨励の担当は、小林昭博先生(キリスト教学教員、循環農学類キリスト教応用倫理学研究室准教授)です。

【奨励者からのメッセージ】「愛敵の教え——隣人と敵の脱構築」」
「隣人愛」の教えは「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)を起源とします。そこでは、隣人愛の前提として、隣人に対する復讐や恨みといった憎悪の感情を否定するよう促されています。しかし、イエスが引用する処世訓は「隣人を愛し、敵を憎め」と語っており、イエスの時代には旧約聖書が否定する憎悪が肯定され、隣人を愛することと敵を憎むこととがコインの表と裏のように理解されるようになっていました。
 では、この処世訓に示されている「隣人」と「敵」とはいったい誰のことを指すのでしょうか。まず隣人についてですが、先に引いたテクストの直前に「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」(レビ記19章17節)と書かれていますので、レビ記が指し示す「隣人」とは、隣近所の人といった漠然とした意味ではなく、あくまで「同胞」(同国人)だということが理解されます。
 次に敵ですが、隣人愛とは同胞による共同体内の倫理規定であり、そこには敵は存在しません。しかし、ユダヤ人は前6世紀のバビロン捕囚、すなわちバビロニアに捕虜として強制的に連行される経験をすることで、選民としての誇りや自信を粉々に打ち砕かれたのです。その後バビロニアを滅ぼしたペルシャによって、ユダヤ人は自分たちの土地に帰還するのですが、パレスティナに戻ったユダヤ人は民族的アイデンティティを再構築せんがために、外敵を作ることで同胞に危機を煽り、排外主義を強化し、民族主義へと傾いていったのです。ですから、この処世訓が意図する敵とは、排外主義によって外敵として定めた周辺の諸民族(異邦人)を表すのです。
 イエスの時代に隣人愛が排外主義と民族主義の象徴であったことは、「善きサマリア人の譬」(ルカ福音書10章25−37節)からも明らかです。この譬において、イエスは強盗に襲われて半殺しにされたユダヤ人を助け、その隣人になったのが、善を行うはずの同胞の祭司やレビ人ではなく、敵として忌み嫌っていたサマリア人であったと喩えることで、「《隣人=同胞》/《敵=異邦人》」という当時の常識を再考するよう促したのです。
 善きサマリア人の譬の意図を援用すれば、イエスが「敵を愛しなさい」と語ったのは、単に無理難題を吹っ掛けているというのではなく、隣人愛が民族主義と排外主義によってその本来の姿から乖離している現状を明らかにし、敵として憎むよう教えられてきた周辺の諸民族(異邦人)が、実際には敵ではなく、隣人として愛すべき人なのだということを示すことで、隣人と敵という二項対立図式を脱構築していると考えられるのです。
 前回の大学礼拝(2018年1月16日)には、CCCのメンバーとして韓国の学生たちが来てくださり、礼拝後の茶話会には30名を越える人たちが集まり、楽しそうにしている姿を目の当たりにしました。両国の政府やマスコミが言うのとは異なり、日本と韓国もまた「敵」ではなく「隣人」だということに改めて気づかされます。みなさんが今後の本学での学びにおいて、世界に目を向け、隣人と敵という対立図式を脱構築し、隣人愛という本学の建学の精神を体現していってくださることを期待しています。