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2015年6月23日の大学礼拝の案内

掲載日:2015.06.17

次回の大学礼拝は、キリスト教学担当教員である小林昭博先生(循環農学類キリスト教応用倫理学研究室准教授)に奨励をご担当いただきます。

日時:2015年6月23日(火)10時40分

場所:黒澤記念講堂

聖書:マルコによる福音書 14 章 32−42 節

奨励:「死ぬほどの悲しみ」小林昭博

讃美歌:讃美歌21 520 番(真実に清く生きたい)


    讃美歌第二編  157 番(この世のなみかぜさわぎ)

詳しくは、PDFファイルをご覧ください。

なお、報告の時間を使って、本学の「ハラスメント対策規程」と「ハラスメント防止ガイドライン」について説明します。

【奨励】「死ぬほどの悲しみ」(週報より)

 ゲツセマネの園でイエスは「驚き、ひどく悩み始め」ます。新共同訳では「ひどく恐れてもだえ始め」と訳されていますが、原文は「驚き、苦悩し始め」です。死の恐怖よりも、「なぜ神は自分を助けてくれないのか」「どうして神はこのような運命に自分を引き渡すのか」にイエスは「驚き」、そして「苦悩」しているのです。イエスは「わたしの魂は死ぬほどひどく悲しい」と漏らします。 原文では「わたし」ではなく、「わたしの魂」となっています。「魂」(psychê) は「生命」をも意味しますので、「生命」と「死」がコントラストを作り、またイエスの「死ぬほどの悲しみ」が「魂」という人間の心奥をも捕らえる、いかに深いものであるのかを伝えているのかもしれません。

イエスは少し離れて独りで祈ります。祈りの内容はフィクションですが、死の運命から逃れたいとの祈りには真実味があります。「ここに留まり、目を覚 ましているように」とイエスに懇願されたにもかかわらず、弟子たちが居眠りしていたのは史実です。テクストは弟子が眠り呆け、しかも祈っても神は答えてくれないことを伝えます。「神を愛し、人を愛し」と語ったイエスが、「神に棄てられ、人に棄てられる」のです。こんなに頑張ってきたのにと不条理を嘆いても、イエスを待ち受けていたのは死を目前にした孤独でしかありませんでした。「わたしの魂は死ぬほどひどく悲しい」と漏らしても、人も神も応答してはくれない。孤独がイエスを飲み込んでしまったのです。

本学の学生と教職員にも「死ぬほどの悲しみ」を抱える人がいるはずです(報 告で対策の案内をする「ハラスメント」は正にそれに当たります)。わたしたちが眠り呆けてそのサインに気づいていないだけかもしれないのです。イエス のように言葉にできなくても、独りで抱えずにサインを出してください。そし て、そのサインを見逃すことのない酪農学園大学でありたいと切に願います。


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