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2017年度後学期第12回(2017年12月12日)の大学礼拝の案内

掲載日:2017.12.06

2017年度後学期第12回大学礼拝

日時:2017年12月12日(火)10時40分
場所:黒澤記念講堂
聖書:コヘレトの言葉3章11節
奨励:「理性の限界と永遠を思う心」                
   小栗昭夫(日本基督教団小樽聖十字教会牧師、元本学講師)


奨励の担当は、日本基督教団小樽聖十字教会牧師の小栗昭夫先生です。
先生は以前に本学のキリスト教学の講師をしてくださっていました。

【奨励者からのメッセージ】
 「理性の最後の一歩は、自分を超えるものが無限にあることを認めることである。もしそれを認めるに至らないなら理性は弱いものにすぎない」。私は、20歳の頃にこの言葉と出会いました。それ以来、50年間にわたり私にとって、生きる全ての場にあって自分の考えと行動を律することばとなっています。
 きょうは、このパスカルの言葉と、旧約聖書コヘレトの言葉を土台として、「理性の限界」と「永遠を思う心」についてお話をさせて頂きたいと思います。
 私の人生は、第二次世界大戦終了の年に始まり、戦後の歴史と同じ歩調で歩んで来た日々でありました。しかし、これら72年の日々は、誰もが謙遜になり、いのちへの尊厳に目を向け、平和な新しい日本を作りだすことに邁進してきたどころか、誰もがエゴイスティックな争いと混乱の中に埋没して来た歴史であったとしか思えません。
何よりも私自身が、人間としての弱さの故に、自分への驕り、安易に人を評価してしまう、という誘惑に直面することが多々ありました。しかし、たとえそれが学問における冷静な批評を必要とする場合であっても、真理の前に立つ謙遜さを見失った上での行為なら、やがては自分のプライドを死守することに囚われ、ついには勝ち負けの世界に埋没して行くことになりはしないか。そこからは、妬みや憎しみといった非創造的(自己破滅的)な負のエネルギーが流れ出てくるだけではなかろうか、と考えてしまいます。
 しかし、このように負のエネルギーが流れ出るままに身を任せるのではなく、創造のエネルギーを生み出して行くために絶えず研鑽を重ねる姿勢はどのようにして生みだして行けばよいのか。この問いへのヒントを、私は冒頭に引用したパスカルの言葉と、コヘレトの言葉の中に見出すのです。それは、真理の前に立つ謙虚さのことなのではないかと。
 とはいえ、やっと到達したと思った時点で、さらにその先にまだ道は続いている、という現実に人は気づかされる。つまり、理性の限界を気づかされるのです。パスカルはこの現実を「人間の中間性」と呼びました。正に我々は虚無と無限の中間におかれている。それゆえ「中間をはずれることは人間性をはずれることである」(378)とさえ語りました。のみならず、こうした中間性を自覚できることが人間の「偉大さ」なのだ、とも語りました。
 そんな現実の中に生かされている我々に、「神は永遠を思う心を与えて下さった」とコヘレトは語ります。この永遠とは、移ろい行く有限存在の世界に属するものではなく、不変、かつ無限なるもの、つまり、神ご自身の属性です。
 それゆえ我々は、傲慢さにも自己卑下の念にも囚われずに、神を思いつつ創造のエネルギーが生み出される希望を抱きながら日々の研鑽を進めて行く力に満たされるのではないだろうか、と考えさせられているところなのです。


2017年度後学期第11回大学礼拝(2017年12月5日)の案内

掲載日:2017.12.01

2017年度後学期第11回大学礼拝

日時:2017年12月5日(火)10時40分
場所:黒澤記念講堂
聖書:ルカによる福音書2章4-7節
奨励:「わたしの小さなクリスマス」                
   森 宏士(日本基督教団栗山教会牧師・本学講師)

奨励の担当は、日本基督教団栗山教会牧師の森宏士先生です。
先生は本学のキリスト教学の講師をしてくださっています。

【奨励者からのメッセージ】
 クリスマスを毎年祝うのは、約2000年前にイエスがこの世界に生まれたことのお祝いだけではありません。むしろ、神ナシと見えるわたしたちのこの世界に、新たにお生まれくださることを願うこと、平和を求めることでもあります。ルカ福音書のクリスマスと共に、わたしにとってのクリスマスを、少し紹介させていただきたいと思います。
 ルカ福音書の記すクリスマスは、次のようでした。世界を圧倒する巨大なローマ帝国がイスラエルを植民地化し、その圧政はいよいよ強まってきて、人々は不安でいっぱいでした。そこへ住民登録令が出されます。どのような人がどこにどれだけいるかを把握されることで、税や労役や監視が深まることを意味します。ヨセフも、妻マリアを伴って、登録のためにベツレヘムへ向かいます。マリアは、神によって子(イエス)を宿していたということですから、誰もが納得し得ない怪しげな妊婦とも言えます。臨月が近づいていて、とても不安な辛い旅であったことと思います。「どうしてこんなことが…いったい神さまは…」。
 さらなる困難が、ベツレヘムで待っていました。住民登録のために大勢が移動していたためでしょう、二人を泊めてくれる宿がとれなかったのです。当時の多くは「民泊宿」のようですが、ヨセフの先祖の土地、しかもマリアは身重です。なぜ誰ひとり、相部屋や、客間の片隅に寄せてくれなかったのでしょうか。皆、住民登録令の不安と疲労で余裕を失っていたのでしょうか。この、「よりによってこんな時に…いったいどうしてこんなことが…」という世界は、「神ナシに見える世界」を表しています。
 ところが幼な子は流産してしまうことなく、無事、生まれたのだと言います。ただし、誰もが見つけやすく、お祝いされやすい「宿屋や客間」にではなく(そこに誰も入れてくれなかった!)、そのかたわらの「家畜小屋」にです。
クリスマスの物語は、「神ナシ」に見えるこの世界に、神の救いがそれでも生まれたことを告げようとしています。この、悲しみや不安や排斥の中にいわば不時着した幼な子が、やがて、人々の「客間」に訪れることになる、と。
 わたしにとってのクリスマスは…お話の方で…。


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